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「1月24日(再発)」

 再発、してしまいました。骨髄穿刺(せんし)検査の結果が陽性でした。 ハッチンソンを離れる準備の最終検査で見つかりました。昨日知りました。 移植後76日目でした。楽しい計画をいろいろ立てていただけに、さすがにショック。 でも、闘いを継続します。 というわけで、モードを変えて、いま進行中の闘病記執筆はしばらく中断(中止ではないよ)します。 できれば前のように、書けるときに日誌をぼちぼち送ります。
 新しいプロトコル(治療計画)に参加します。 いわゆる「バッフィー・コート・インフュージョン(ドナー・リューコサイト・インフュージョン(DLI)」 といわれるものです。日本では「ドナー・リンパ球輸血」というのかな。

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 分類では免疫療法のひとつだと思います。 骨髄ドナーにまたお願いして、患者にドナーのリンパ球の成分輸血をします。 その前に化学療法をして、白血病細胞を大まかに掃除します。 そして免疫抑制剤はストップして適度なGVHD(移植片対宿主病)を誘導します。 (GVHDのGVL(対白血病)効果を期待するのです)
 それからバッフィ・コート(リンパ球)を入れます。 ここに含まれているドナーのT細胞をはじめとした免疫細胞が免疫メカニズムで白血病を攻撃するはずです。 長期寛解に入る可能性が相当の割合であります。 なかでも慢性骨髄性白血病では9割の患者に効果が認められるそうです。 あさってから入院して化学療法に入ります。手強い相手なので、どの抗ガン剤を使うか検討中です。
 迷ったのですが、本人がみなさんに再発のことを知らせておいてくれとのことでしたので、 報告することにしました。
 頑張りましょう。では、また。

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「1月25日」

 化学療法の種類はハイドース・アラシー(ARA/Cの大量投与)に決定。 アラシーはこれまでにも使ったことがある。良く効いたので再度、薬効が期待できる。 耐性ができているほどにはなっていないだろう。中央神経系(髄液など)内の悪性細胞にも効果があるとされている。 かつて髄液に白血病が見つかったので、これも安心材料。第一候補の薬にすんなり決まって、 疑問の余地はない。
 明日から入院。昨日と今日、良いことも悪いことも話し合った。あとは良いことだけ考えて集中するのみ。 入院前にまずやることが、子供の服の裾上げやボタン付け、そして子供のための料理というところが、 母心だなあ。

☆みなさん。応援ありがとうございます。みなさんの気持ちが確実に妻に届いています。

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☆Kさん。ご自分の再発についての詳細な説明ありがとうございます。 Kさんの文面を読んで、妻はぐっと元気を出しました。 まさにミラクルです。Kさん(患者同士)にしかできない芸当だと、ただ感嘆しております。 ありがとうございました。ここをプリントアウトして入院のとき持っていくと言っています。

☆ドナー・リンパ球輸血のドナーとのアレンジは骨髄のときと同様に行います。 採取方法にふたつあります。

1:ドナーに2、3日血液銀行に通ってもらって血液成分分離器にかかっていただく。

2:G−CSF(顆粒球成長促進因子)を数日注射したあと、1日で血液成分を採取する。

今回は後者をまずお願いするプロトコルです。 1と2の患者に対する効果の違いがあるかどうかを比較する目的とか。 効果はどうやらあまり差がなく、ドナーの利便性の問題になりそうです。 それも、ドナーの苦痛や拘束時間という点で、それほど大きな違いはなさそうに思えます。
*今日はこれぐらいで。

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「2月20日(治癒断念)」

 みなさん、ご無沙汰です。KENです。オフ会楽しかったようですね。 らくだのオアシスが活況を呈しているようで何よりです。 ご心配かけているようなので、敢えて久々に登場します。 闘病中の方々をがっかりさせたくないので、読むのが辛いと思う方は読まずに置いて下さいね。

◎治癒断念しました。 2月10日の骨髄せんしの結果、抗ガン剤(ハイドース・アラCを予定の10ドースから 12ドースに増量投与)が十分に効かなかった(抵抗性がある)ことが判明したため、 11日に本人にも告知の上、治癒を断念しました。 骨髄にまだ白血病細胞が残っており、抹消血からも白血病細胞が検出されました。 ドナーリンパ球輸血で押さえ込める量ではなく、これ以上の抗ガン剤使用も、 むしろ生命を縮める危険性が高いため、治癒を狙う治療はいっさい止め、 延命措置と補助療法のみとなりました。 限られた期間となるとは思いますが、生存の質(QOL)を最大限にすることに目標は移りました。

◎一口でいうと、骨髄移植は成功したのですが、白血病が移植でも根治できないほどの悪性のもの だったということでしょうか。移植をしたことは間違いではなかったと思います。 悔いがあるとしたら、あと2カ月早く移植できていたらということだけです。 移植直前に再発してからというもの、白血病の勢いには恐ろしいものがあります。

◎死地はシアトルを選択。本人が日本の地を踏むことにこだわっていないし、無理して帰国すると、 最後の良質な日々が少し失われるかもしれないから。 日本に自宅はないし、ニューヨークの家は引き払ってしまい、実際のところホームレス状態。 受け入れ機関も不安だし、ホスピスに入るほどの期間もなさそう。 今以上の環境の保証がないなら、動き気はしないということで結論。

◎治癒断念後、再度精神的ショックが襲う。 次の2、3日は悲嘆と怒りを表出しつつ、遺言書きなどに費やす。 遺言や手紙を書くことがなかなか進まず、少しあせる。 次いで表面的には日常的な時間を過ごす期間に入る。

◎手作り(手探り)の仕組み作り。本人の状態と希望にあった治療の仕組みを、病院と模索する。 2月11日から18日は入院のまま昼間、長期外出許可を得る。 だいたい、朝11時に出て夜8時に戻る。

1:入院したまま、
2:外来に通院、
3:病室を残したまま外出許可、

の3つから本人が3を選択。 夜の間に水分点滴、輸血、抗生物質で充電し、昼間は好きに行動するということで、 なかなかうまく行った。 2月19日には退院。「退院できる間に退院しておきたい」という本人の希望から。 2日に1回、訪問看護婦が来て採血などをする。一種の自宅ホスピスケア。 自宅で抗生物質や水分は点滴。輸血が必要になれば外来の個室に行く。 病院は待合い室で人に会わず、かつ待たなくてよいよう配慮してくれる。必要に応じて医師の検診。 診察は、外来の医師でなく入院病棟の現在の担当医が特別に外来まで来て診察することで、 継続性を確保。

◎できる限りの日常生活の維持継続がテーマ。 うまいものを食べさせてやりたい、どっかに連れていってやりたい、という僕の気持ちに対し、 本人はとくに関心なし。ごくごくありきたりの日常を続けたがる。妻と僕と息子の3人だけの普通の日々。 僕はひたすらサポートに徹する(たとえば、妻が作ろうと思った料理を急きょピンチヒッターで 引き受けたりするが、悲しいかな、妻がイメージした味にはならないのであった。 申し訳ない)。 カール・セイガン博士は最後まで仕事をしていたけど、主婦は最後まで主婦業をするというわけ。 まあ、尊さとしては同じだろう。 自らを振り返ると、悲しいかな、サラリーマンにはそんなときに固執できるほどの日常は なかろうに。

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◎医師団の方針は?。 僕が知りたいのは、医師団の補助療法(抗生物質、輸血など)の方針が、「治療中」の以前と 変わっていないかどうか。ここで手抜きはして欲しくない。 なるべく生存の質(QOL)を維持する方針でやって、最終的に感染や出血が起こるのは いた仕方ない。医師団もこれに同意しているが本音かどうか。 治癒できないと分かったとたん、本気でなくなるのではないかと疑心暗鬼。 一方で医師団が腫れ物にさわるような態度になっているのも事実。 呼ぶとどんなときでもすぐに飛んでくるようになった。この真剣さは前にはなかった。 この段階でのトラブルは感情的になるので極力避けたがっているよう。
 死は死であって、どんな死でも同じであるかも知れないが、やっぱりどんな死に方をするかは 重大な点である。 本人に苦しんで欲しくないし、残されたものもトラウマ(精神的外傷)を残したくない。 医師団は尋ねれば、ある程度多い死の起こり方のパタンを説明してくれる。 強く苦しむことはまず皆無であるとのことではある。 白血病そのものが原因になることはなく、血球減少状態から来る感染症や出血などの何らかの 副次的問題が致命的になることが多いという。 回復が見込めなくなった場合の基本方針も説明される。 妻は延命治療に関する考え方を記入した「生前の意志(リビング・ウイル)」を提出した。
 それにしても、死に方をソフトランディングさせるとは、いったいどういうことなのだろうか。

◎ソーシャルワーカーって?。 患者への接し方、子供への説明、葬儀の準備などについて、ソーシャルワーカーのアドバイスを聞く。
 患者への接し方では、「患者の好きにさせてやる」「世間の尺度で測らない」というのが基本。 同感である。 子供への説明については、パンフレットをくれた。いつ、どう説明するか、とても苦しい問題で あり、まだ考慮中である。 儀式の準備については、事前に本人もいっしょに葬儀社に行くことをすすめられた。 妻はさすがにそれは抵抗があるみたい。 でも、妻は手作りの簡素な葬儀を求めているので、かえって具体的な注文をしてもらわないと、 私としては困る。とにかく明日、ひとりで葬儀社にいくことにする。
 ソーシャルワーカーは、僕の不安を拭おうといろんなことを言う。 「死に目に会えなくても気にするな」「あなたは簡単には妻のことを忘れない。 でも忘れても自分を責めないで」「子供は大人ほど複雑じゃないから、すぐ適応する」 「葬儀はとても大変だと思うでしょうが、専門家がちゃんとやってくれる。 どんな注文にも応えてくれます。意外と簡単だとがっかりしないように。 彼らはこういうことに慣れすぎているだけだから」
 こういう指導を受けると確かに気は楽になる。 でも、何か簡単すぎる。1問1答で、答えが用意されている。もっといっしょにどっぷり悩んで欲しい。 悩む力が弱っているのか、現代社会は、何でも簡単に答を出したがっている。 もっとも、ソーシャルワーカーにとっては、患者の死は日常だから仕方ない。 このソーシャルワーカーは一人目の夫を飛行機事故でなくしているので、経験者としての視点はもっている。

◎インターネットサーチも見るところが変わってきた。たとえば、*1

 どなたか「生と死」を考える関連サイトをご存じの方があれば、教えて下さい。 海外では日本語書籍が手に入りにくいので、いったいどうしていいのやらヒントが少ない。 「ジミ葬」なる言葉がトレンディであるとか。どうやらこのジミ葬になりそうである。 海外でやるので、とらわれないスタイルでも一向にかまわないのは悪くないけど。

◎結論は、とにかく一日一日を恵みと思って生きるしかない。 数日前、喫茶店でふたりで長時間とめどもなくしゃべったひととき。 先週末、妻の一番の友人(米国人)と子供(息子の親友)が遊びにきてくれたこと。 こんな瞬間があといくつ作れるかだけを考えて・・・

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*1.SEKISE Co.,LTD , National Funeral Directors Association
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「3月4日(火曜日)」

KENです。みなさん。いろいろレスありがとうございます。 みなさんのレスを読んで、少しだけ豊かに優しくなれたような気がします。 らくだの包容力、懐の深さをあらためて認識しました。 ホントにここでは、「どんな局面にあろうと」書きたいことを書いてよいのですね。 みなさんに個別にご返事すべきところ、まだできていないのですが、ご容赦下さい。その後・・・

○2月26日、意識混濁、呼吸困難、歩行不可能になり救急車で緊急入院。
8日前に帰宅して家で3人で頑張ってきたが限界に達する。 入院時の状態は、肺炎と敗血症で高熱があり抹消血の飽和酸素値が70台と低い。 「危篤」。「1日持つかどうか」と言われる。あわてて両家族を呼ぶ。
 救急車で家から運び出されるとき、玄関のところで意識混濁の中で妻は急に首を起こして、 大きな声で「○○ちゃん。バイ、バーイ」と子供に別れのあいさつをした(子供は学校に行っていたが)。 感無量である。前日から自宅で酸素吸入していたが、1日で状態が急速に悪化した。 その後、最大限の酸素吸入と血液PH調整で危篤状態を脱する。
 午後、学校から病院に来た子供を「ちょっとお話聞いてくれる?」と、 別室に連れていき「ママがもうすぐ死ぬ」と告げる。「お医者さんがもうママは治らないと言っている。 再発したあとキモ(セラピー)したけど効かなかった。強い白血病だからやっつけられなかった。 ママが死んでしまったら、もう会えなくなるよ。今からママのところに言って、たくさんお話をしとこうね」。 「えっ、キモ効かなかったの。ボク知らなかったよ」と子供は僕の腕の中でビクッと震えた。 病室に行くと、子供は3歳ごろに戻ったように、ママの腕の中で心ゆくまで泣いた。 ママの頭や腕をいっぱいなぜながら。すべて分かっているように見えた。 翌日、子供は学校の親友数人に「ママが2、3日で死んじゃうんだ」と話す。健全なことだと思う。 担任の先生に電話して相談、父兄宛にメモを入れてもらうことにする。 クラス中で「デス・エデュケーション」が進む。いくつかの家族が、プレイ・デイ (子供同士を放課後遊ばせる)を申し出てくれる。
 子供はママとの儀式を終えてからは一見平静に見える。 死んだらどうなるかを説明した数日後、「焼いて灰にするのはママの霊がかわいそうじゃない?」と 尋ねてきた。介護と日本から来た親たちへの対応に精一杯で、子供のメンタルケアに手が回らない。 子供は自己防衛本能か、ママには淡泊になり、伯母ちゃん、おじいちゃん、スター・ウォーズに入れ込む。 でも、あるとき電話で、「パパ、最近ぜんぜん家に帰ってこない」と訴えられる。 やっぱりこういうときこそ、フォローしなければ。それからは毎日1時間はスキンシップするように努める。 あれ以来、僕が「ちょっと話がある」と言うと、子供は「いやだ。また悪いニュースだろう」と 逃げるようになった。ごくごく軽いトラウマ的メカニズムがあるようだ。 でも、みんなが子供の明るさに救われている。その後もこれまでと同様、毎日、病室に連れていく。 妻が酸素吸入している横で、子供はスター・ウォーズごっこに興じている。

○妻は、子供宛にたくさんの手紙を遺した。子供が各年齢に達したときに読むための手紙である。 8歳、10歳、13歳、15歳、17歳ときて、17歳の途中で絶えている。 二十歳、結婚時、子供が産まれたとき・・・、と書き続けたかったはずだ。 死の準備が完成することはない。これで十分とするしかない。

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○書かれなかった僕への手紙。両親、僕の両親などに宛てた手紙の所在も確認。 でも僕宛の手紙だけない。ショックでパニックである。家の中を探し回ったが、ない。 僕のために何か言葉を遺してくれ! 意識朦朧の妻に尋ねると、「覚えてないけど間に 合わなかったかも知れない。大事なものほど後回しにしてしまった。 もっと時間があると思ったのに、甘かったわ」。この「大事なものほど後回し」という言葉に救われる。 それに、子供は別格として、僕には他人でもあるまいし、手紙をわざわざ書くほどじゃない。 半分、一心同体でやって来たのだから。そう解釈し気が楽になる。

○言葉、言葉、言葉。 こういう段階の患者が何を言うか、最後に何を言うかは、遺されるものには大きな問題である。 「ありがとう」か「水がのみたい」か意味不明のうわごとか、あるいは「あんたのせいよ」的なことか。 医師団はそういうことには全くの無関心である。大量酸素吸入の音がうるさくて、ただでさえ、 意識が安定しない妻とうまく会話が成り立たない。

○妻が急に「らくだのみなさんに、簡潔にご報告しといて」と言う。

○葬儀社、2社調べる。 A社は病院推薦で主要費用50%引き。B社は日本領事館から名前を得たが、 こっちも価格はA社に合わせるという。 米国では葬儀でも価格破壊が進んでいるようだ。A社、B社とも提案力に物足りなさがある。 もっとも「ジミ葬」では商売にならないか。会場の雰囲気でB社を選びそう。 対応する人間は、当たり前だが、普通のセールスマンである。 特にお悔やみの言葉に類したものもない。

○劇的回復。3月3日、4日と調子回復。妻は外出許可を訴え続ける。 4日、ついに2時間の外出許可を得る。医師は病室に据えつけの大量酸素吸入装置なしでは 無理といったが、妻は携帯酸素装置を試させてくれと引き下がる。 あんまりしつこいし、調子も良さそうなので、テストを受けさせてもらうことになった。 結果は、携帯酸素でも指先の飽和酸素値が88程度あり、見事合格。 今日は据えつけ装置を使うと、この値が100あり、僕より高い。 肺炎はほとんど進行しておらず、敗血症は収まった。平熱。意識平常。 トイレに行くのに2人の補助がいったのが、半人ですむようになった。 医師団もびっくりしてあきれている。「1日はもちません」から、「1週間はもたないでしょう」 になり、今日は「素晴らしい回復だ。すごい。あんたはただ者じゃない。良くやっている。 素晴らしい意志だ。明日も調子が良ければ外出許可を出しましょう。 筋力トレーニングのため、セラピストもつけましょう」になってきた。 明日はベッドの上での清拭でなくシャワーに挑戦するか。我が妻ながらホントに体力があるヤツだ。 白血病が治るわけじゃないかも知れないが、まだ少し時間は残されていそうな雰囲気になってきた。
 僕ひとりの介護で、酸素吸入が必要でかつ歩けない妻と家に帰るのはひと仕事だったが、 えも言われぬ達成感があった。 妻は1時間ほどかけて、床に座って、自室の整理をした。 妻の強い意志に負けて、まず看護婦さんが本気になってくれて、医師団も動いて実現できた。 これは偉業と言うべき。

○最近訪問したWWWサイト。*1

では、また。

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*1.
Project on Death in America
The Zen Hospice Project
Tom Golden's page
GriefNet
Association for Death Education and Counseling
The University of Ottawa Institute
Breast Cancer Information Clearinghouse
Caring for the Dying and Bereaved
HOSPICE NORTH CENTRAL FLORIDA - Hospice Hands
The Funeral Help Page
The Living Will and Values History Project
Helpful Essential Links to Palliative care
Works Designing office
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