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「3月8日(土)」

まごころレス、ありがとうございます。 KENがポストすると、どうも、らくだが湿っぽくなるようで申し訳ない。 杞憂でしょうが、みなさん、どうかいつもの調子でやって下さいね。

○奇跡の回復? 治療再開。

・どっこい生きている、というか「奇跡の復活」ぎみ。酸素タンクを抱えて執念の4日連続帰宅を決行。 顔色も良くなる。アパートの駐車場から部屋まで歩いたりもする。 必要酸素量は濃度90%から50%に減少し、抹消血飽和酸素量は95%〜100%維持し、 血球カウントが2000を越しても抹消血に白血病細胞が依然として見えない。 どうやら肺炎は後退し、白血病がなりをひそめている。医師団は妻の姿を見て、ついに方針を変更。 3月6日に抹消血の詳細検査。異常細胞なし。ドナー血球比率の結果はこれも3月10日に判明する。 3月7日には骨髄せんし。同日中の速報では、未成熟細胞比率は20%程度。大幅に減少している。 詳細は3月10日に分かる。 直近の化学療法15日目の検査では、骨髄の未成熟細胞が3分の1、抹消血でも未成熟細胞があり、 その未成熟細胞が以前の白血病細胞と同定され、もう化学療法でもGVL(移植片対白血病効果)でも ドナー・リンパ球輸血でも、この白血病を抑えられる見込みはないと言われた。 今頃は全身白血病細胞の巣となっているはずであった。ところが白血病細胞が抑制され奇跡の復活。 医師団は首をひねったり、頭を抱えたりするばかりだ。もちろん我々には朗報である。 医学的には説明が付きにくいという。 医師団は「奇跡の女性」「賞賛すべき人」などと呼んで、説明は避ける。 説明づけるとしたらまずGVLである。でもGVHD(移植片対宿主病)が見られない。 GVHDなしのGVLはまれである。この二つはコインの裏表だから。 あの勢いの白血病を抑えるにはよほど強力なGVLということになる。 また、何らかの理由で白血病が睡眠期にあるというようなことも想定できる。 いずれにしても、何かが起こった。

・「今頃は死んでいるはず」が、「ドナー・リンパ球輸血」プロトコル参加者の候補に戻ってきた。

・というわけで「治療再開」の体制に入った。 X線写真、抗生物質強化、TPN(輸液栄養)投与、抗菌薬のアムフォ投与などがいっせいに始まる。 まずは肺炎の治療が第一の焦点。そして次の治療のために全身状態を向上させること。

・恐怖のブロンコスコーピー。 3月8日、肺炎の正体を知るため、気管支の標本検査(ブロンコスコーピー)、 ファイバースコープを気管支に挿入し、生理食塩水を入れて吸い出して標本を取る。 ブロンコは「気管支の」という意味だが、「野生の馬」(フォード・ブロンコなんて車がある)の 意かと思うぐらい荒っぽい。普通15分のところが難航し、1時間かかる。 病室で立ちあって見ていた僕が一番疲れた(米国ではこうしたときには病室に家族がいるのが普通)。 医師団はケロッとしているし、妻は覚えていない。受け身の治療から、積極的治療に切り替えると いうことは、治療の苦痛は増えるわけで、それだけ大変ではある。 速報は明朝、詳報は数日後に分かる。

・揺れる心−−。希望は心配の始まりである。プロトコルに進むには、肺炎が悪性でないこと。 そして、3月10日に分かる結果が完全寛解かそれに近い状態でなければならない。 骨髄や血液にドナー由来部分が相当量含まれていることが必要である。結果待ちは辛い。 3月7日で医師団が月次の交代。 旧医師団は「最後に朗報を伝えられて良かった」と希望を示し、新医師団は僕たちが期待し すぎないように、抑えるのに躍起である。

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・望外の状況の好転をまずは喜ぶべきであるが、「治癒断念は正しかったのか」という疑問は当然湧く。 あのとき治癒断念をしていなかったら、肺炎にかからず(あるいは早期対応でき)、 全身状態ももっと維持できていたはずではないかと思うからである。 毎日毎日、「抹消血にブラストがないのはなぜか」「白血病はどこでどうしているのか」 「治療方針の変更はないのか」「もっと治療薬のカバーを増やさないのか」と尋ね続けてきたのである。 答は「先に骨髄や内臓に広がるタチのものなのだろう」「当面は調子が良さそうでも、 白血病の性質に対する見方は変わらない。すぐに手が付けられなくなるだろう」 「薬や栄養を補っても残った日々の生存の質(QOL)を高めることにはならない」ということ の繰り返しだったのだ。 妻が持ちこたえて、医師の考えを変えさせるところまで行って、本当に良かった。偉い、偉い。

○院内感染勃発

・今フレッド・ハッチンソンではRSV(respiratory syncytial virus。 ウイルス性の悪性の呼吸器系の風邪のようなもの)感染が猛威をふるっている。 9階では20人中約10人が感染。1〜2日にして2人から10人へ広がった。 これが致命的になる人も出ている。毎年、2月頃はRSVの季節である。 2、3年前にも流行し1カ月の間、新規入院を停止した。 今回のはこれまでにない規模の流行である。

・対策:RSV患者の隔離。非RSV患者の逆隔離。 RSV患者はフロアの西側に集め、非RSV患者は6階に移動。 家族控え室は、複数の家族が同時に立ち入ることは禁止。新規入院もストップ。 これにともなって、移植前の外来患者にも影響が波及。 非血縁移植の人はコーディネートの再調整が必要になっているはずだ。 妻は以前インフルエンザウイルスが陽性だったので、9階に残されたまま。 インフルエンザのため他から隔離され、RSVから守るため逆隔離されている状態。 9階では2人だけが非RSVで、包囲されているようで恐怖である。 RSV患者の部屋の前は通らないようにし、他の患者家族とも話さないようにする。 体制変更にハッチはてんやわんや。病欠の看護婦さんもいて人手不足。 隔離体制になると、一人一人の患者さんに手間がかかり、看護効率は下がる。 特殊な備品も不足している。 移植は順調だったのに、RSVで致命的になったような患者さんは、気の毒としか言いようがない。 「無菌室なら防げたのか」という問いが成り立つ。 そうかも知れないし、普通室に移したあとでも広がるものは広がるとも言える。 いずれにしても、RSVを考えると2月前後の移植は避けるに越したことはないかも知れない。

○カルテ一式取得

・ハッチから全カルテ一式を取得。およそ2500ページか。最初に頼んでから1カ月半ぐらいたっている。 3回頼んでもいっこうにもらえないので、4回目に本気で怒ったらわずか3日でできた。 疑えばきりがない(ねつ造? 時間かせぎして未作成のものを作っていた)が、 どうやら医師が事務に伝え忘れていたか、事務が忘れていたようである。 実費が1枚20セント合計500ドルかかるはずであるが、恐縮しているのか、今のところ請求してこない。 とりあえずサマリー部分や重要検査のあたりから解読開始。

○1年生修了:今日、子供が日本語学校の1年生を修了。 やっかいな環境の中で、毎週土曜日、遠くまでよく通った。 ひらがなもほとんどできなかったのに、今ではほぼ教科書に追いついてきた。 土曜日学校から帰ってくると、友達から教わった悪い日本語をたくさん覚えてくるので、 びっくりするが、これも日本の小学生の通常レベルに追いつきかけているということであろう。

−−では、また。

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「3月11日(火)」

KENです。続報です。

○白血病、突然の消滅。“寛解”入り。

 3月10日、骨髄せんしの正式結果出る。 未成熟細胞数数5%以下、細胞の腫瘍マーカーは陰性で白血病細胞は認められない。 寛解状態にあることが分かった。予想以上の結果。

○ドナー血球の定着

 3月11日、抹消血の「X−Y染色体分析」の結果出る。 骨髄では99.5%、抹消血では100%が男性細胞、すなわちドナー由来の健康な血球となっていた。 これも想像しなかった好結果。

○これまでの経緯の復習。

・1月22日=骨髄移植後75日目ごろ。骨髄せんしで50〜70%が未成熟細胞。 この頃、抹消血にも11%〜15%の未成熟細胞発生。当時のドナー細胞比率は5割程度。再発。

・2月10日。再発後の再導入療法(化学療法)15日後。骨髄せんしで未成熟細胞あり。 抹消血の3分の1は女性(本人)細胞で、ドナー細胞比率は3分の2。腫瘍細胞あり。 白血病に抗ガン剤に耐性がうまれ、GVL(移植片対白血病)効果やDLI(ドナーリンパ球輸血) でも治せる可能性はないと言われ、治癒断念、積極的治療停止。

・3月6日。再導入療法40日目の骨髄せんしで未成熟細胞5%以下、腫瘍細胞なし。 抹消血に未成熟細胞なし。全血球がドナー細胞。寛解入り。

・免疫抑制剤は2月末に中止。

○説明可能か? 

白血病を消えさせた理由は、何だろう。 説明は不要で不毛かもしれないが、次のようなことが考えられる。

1、奇跡
2、化学療法の遅延的効果
3、GVH(移植片対宿主)/GVL(移植片対白血病)効果
4、肺炎の原因が知られざる抗ガン物質を放出した

 1:奇跡と呼ばなくても、かなり幸運ではある。危篤時に持ちこたえてよかった。 病院に連れていくのが数時間遅かったら、あるいは体力が弱っていたら、あるいは気力が落ちていたら、 もうダメだったかも知れない。

 2:抗ガン剤に使ったアラシーの効果は投入直後に限られていると言われる。 だから継続投与が必要。細胞分裂のS期の遺伝子の転写を阻害するからだ。 しかし、G2期も阻害すると考える科学者もいて、それなら若干の遅延的効果 (あとになって効果が出る)こともあり得るそうな。 それなら、抗ガン剤投与を開始してから15日目より後になって、アラシーの効果が出た可能性も ゼロではない。でも説得力は弱い。

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 3:GVLが白血病を免疫で抑えた。そうかも知れない。 でもGVHが、(少なくとも明確には)見られない。GVHなしにGVLがあるとは普通考えにくい。 白血病だけに選択的にGVHが起こるとしたら、すごいことだが。 また、GVLの免疫効果は少ない腫瘍細胞を根絶することはできても、大量の腫瘍細胞を減らす ことができるとは考えられていない。 だから、ドナー・リンパ球輸血に進む要件として、腫瘍細胞がかなり抑えられていることが 求められているわけだ。

 4:僕の仮説−−。肺炎の原因が何らかの化学物質を放出。それが未知の抗ガン剤だった。 結核菌から丸山ワクチンが分離されたように・・・。 ある種の感染が、免疫系を強く刺激することはあるそうだ。 でも、これは荒唐無稽だし、肺炎が治ると白血病抑制力も消滅してしまうわけで、 都合よくない説明。

 結局、2と3の組み合わせとしか科学的には説明できないだろう。
 このタイミングでドナーからいただいた細胞が俄然活力を出して優越になり、 アラシーが何とかGVLが効き出すギリギリのところまで腫瘍を減らし、 GVLがGVHをほとんど伴わずに白血病に選択的に最大限に働き、 肺炎は致命的になる直前に山を越えた。 こうした一連のことがこの組み合わせでこのタイミングで起こったことはやっぱり「奇跡」と 呼ぶしかない。 いやあ、本当に「NEVER GIVE UP」って大事ですね。奇跡は起こりえる。

○これからの方針

・肺炎をとにかく治すこと。

・DLI(ドナー・リンパ球輸血)に何とかこぎ着けたいと思ってやってきたが、 よく考えてみるとDLIにこだわりすぎないようにしなければ。 もしGVLが強力に働いているとしたら、GVHもすでにあるいは潜在的にあると考えられるわけで、 DLIでさらにGVHを助長することは危険かも知れない。 また、すでに十分なGVLが働いているなら、そもDLIは不要なわけである。 GVL効果が衰えるようなら、追加してやる必要があるということは言える。

・とにかく、いま白血病抑制の大きな力が働いているわけだ。それに任せるのが良いかも知れない。 肺炎を治し、体力を回復し、静観する。 そして、もし再発の兆しがあれば化学療法でメンテナンスする。

・悲観と楽観。分類的は「移植後に再発し再導入療法で第2次寛解に入った」ということになり、 一般的には再・再発の確率が高いことになる。 でも、あれだけ追いつめられた状況から盛り返すだけの未知の大きな力が働いているということは、 この力は潮目を良い方向に変えるだけのパワーがあるはずだ。 この勢いで、肺炎を治して、第2次寛解のまま帰国して、そのままずっと寛解維持と相成ってほしい。 もちろん、油断は許されない状況にはある。 要するに、毎日をこれまでと同様に、大切に楽しく生きて行くしかないし、それが必ず好結果に つながると信じましょう。

○東京の住みかを決めました。 インターネットで賃貸物件を検索して地図で回りを確かめて、物件は知り合いにさっと 見てもらうだけで決めてしまいました。便利なものです。
(参照 *1


**尊敬する副病院長、ウエイド先生の真似をして顎と頬に髭を生やし始めたけど、 ウエイド先生のようにはしっくりこず、汚らしい感じにしか見えないので、 もっと伸ばすか剃ってしまうか迷っているKENでした。

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*1.
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ふぉれんと
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「3月15日(死去)」

■妻、逝去いたしました■

3月15日午前1時、肺炎により永眠いたしました。
眠るような、平和な最後でした。ほのかな笑みをうかべているような死顔でした。 子供に「じゃあね」と言ってから半日後、安らかに眠りました。
96年2月に急性骨髄性白血病と診断後、1年あまりの闘病でした。
96年11月上旬に米シアトルのフレッド・ハッチンソンがん研究センターで骨髄移植を行って 130日弱が過ぎていました。
1日でも永く立派に行きようと、終わりまで強い意志を持ち続けました。
そんな妻に「ご苦労さん」、そして「ありがとう」と言いたいと思います。
らくだのみなさんとは、いっしょに一喜一憂し、共に過ごした気がします。
妻はけっして孤独ではなかったと思います。
妻の死去は残念ですが、ラクダのみなさんには、これからも、けっして臆することなく、 誇り高く血液疾患と闘い続けていただきたいと、思う次第です。
骨髄移植後の再発、化学療法への白血病の抵抗性、治癒断念、治療再開、肺炎の突然の悪化−−と至りました。
前回の良いお知らせをしたあと、翌日から肺炎が悪化し、皮膚からも白血病が見つかり、寛解も 崩れ掛かっていることが判明。医師団は再度、治癒を断念しました。 肺炎がさらに悪化し3月14日の昼には医師がさじを投げました。 医師はそのまますぐにでも逝かせることをすすめましたが、あまりの状況変化に認識がついていかず、 人工呼吸器をお願いしました。妻と相談した結果です。
「今すぐ決めて下さい。人工呼吸器を選べば、1時間後につけます。そのとき麻酔で意識はなくなります。 そうでなければ、息が苦しくなってきたらモルヒネを入れて楽にしましょう。 2、3時間は意識があるかも知れませんが、生命は半日もたないでしょう。 この状況では人工呼吸器をつけても、また目が覚めるようになるとは思えません」。 いま諦めてしまって2、3時間をとるか、一縷の望みにかける代わりに1時間に時間を減らすか、 最後に厳しい決断を迫られました。もう一度の肺炎の奇跡の反転を願って人工呼吸器を少し お願いすることにしました(日本ではこういう状況ではほぼ100%呼吸器につなぐと思います)。 蘇生ショック術は不要と答えました。それで最低4、5日はもつのではないかと思いました。 抹消血から白血病細胞がたくさん出てきたり、肺炎が広がり続けたら、はずしてもらおうと思いました。 ところが、人工呼吸器を付けても十分な酸素量を確保することはできず、あっと言う間のできごとになりました。

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最後に与えられたわずかの時間に学校から呼び寄せた子供と話しをし、手紙の整理と封印をし、 僕にも2行のメモを書き、人工呼吸器を付ける直前に「じゃあ、またね」といって子供を部屋から出させました。
夜になって一晩もたないことが分かり、子供を病院の控え室に呼びましたが、子供はなぜか病院を嫌がりました。 もう、彼にとってもう別れの挨拶は終わっているし、呼吸器をつけたママを見せるのは酷だなと判断し、 そのまま控え室にいさせました。最期は私と妻の母で看取りました。 看護婦さんがよく説明しながら、苦痛がないようにうまくソフトランディングさせてくれました。 死後、すぐに子供に説明しました。呼吸器をはずしてもらい、着衣を整えてもらいました。 子供が「ママの死んだ体を見たい」と言ったので、いっしょに病室に入りました。 まだ温かい、妻のなきがらをさわって、少し泣いて、自分の涙を「ボクの涙にママといっしょにいてほしい」と、 ママの腕にこすりつけていました。 ママの死体を見て、彼なりにずいぶん納得して気がすんだ様でした。
肺炎の原因を知るために、病理解剖をお願いしました。妻は許してくれると思います。 医師は症状からアスペロジロス(菌類感染)と考えています(注:病理解剖の結果は、感染症でなく、 蓄積した放射線と抗ガン剤などの毒性から、肺組織が崩落したためとわかった)。

一口で言えば、「骨髄移植は成功したが、骨髄移植をもってしても治癒できない悪性度が高いものだった」 ということになります。
それでも、骨髄移植はするに値するものだったと思います。
理想を言えばキリがありません。もっと早く、より良い条件で移植できていればという悔いは残ります。 最後に奇跡が起こりましたが、奇跡が起こっていることを知らずに、それを活かすことができませんでした。 奇跡はひとつでは足りませんでした。
しかし、その時々でそれなりのベストは尽くして来ました。 運命に多少もて遊ばれましたが、それも天命であると受けとめられ、複雑な悔恨の念はありません。
呼びかけても返事はありません。
永遠の空虚があるだけです。
妻は「死ぬのは恐くない。別れが寂しい」と申しておりました。
永遠の惜寂です。
しかし、一人息子の中に妻が生きております。
彼の人となりの土台は彼女が作りました。
私も彼女と出会ってから、NEW KENに生まれ変わりました。
妻の足跡は確実に残ります。
私はできるだけ早く闘病記を完成させ、彼女の霊前に捧げます。

みなさんと近い将来にお目にかかれることを願いつつ、
ご報告とご挨拶にさせていただきます。

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「その後」

「4月16日」

国際ドナーサーチについて(注:日本と米国の骨髄バンクが提携したが、 いろいろ制約があって使いにくいという議論に対して。詳細は2章の2、3、4項を参照)。
うちのケースでは、米国、日本で同時サーチをさせていただきました。
ルール上問題があると言われたことは、一度もありません。
日本のバンク(JMDP)も、米国(NMDP)でもサーチしていることを承知の上で、 ちゃんと作業してくれました。
米国からは日本のサーチが同時にでき、かつ米国のどの病院でも日本から骨髄を受け取ることができます。
これは提携以前から、そうだったのです!!!
逆に考えると、従来から、日本からいつでも米国バンクの検索を依頼でき、どこの病院でも骨髄を 受け取れたはずです。
誰かが、何らかの制限があるとの神話を作ったのではと疑います。
少し調べれば解ける疑問です。
(ついでに、米国では保険がドナーサーチをカバーするので、費用が400万円だろうが何だろうが 患者サイドは気にする必要がありません。)
何で日本では提携が成立しても、これほど事態が進展しないのでしょうか。
ましてやわざと時差を付けるなんて(日本のバンクに登録後、2カ月は米国でのサーチができない)。
提携で勝手なルールを作ってむしろ後退している面があります。
全く摩訶不思議です。
誰が何を心配して流れを押し止めているのか、勘ぐりたくなります。
この心性(国産主義、日本空洞化への恐怖、問題の隠蔽で問題を作る)は、本当に罪作りだと思います。
責任を明確にすべきです。
(憤って、元気が出てきたKENでした)

「4月25日」

ドナーから妻あての手紙がきた!!
妻が亡くなったのが3月15日、手紙がハッチンソンのコーディネーターに届いたのが3月24日。
ドナーは妻の死を知らずに手紙を書いたのだ。
コーディネーターが僕に送った手紙はいったん宛名不明でハッチに戻り、日本の住所に再度送り直されて、 やっとこ昨日届いた。

小さなきれいな字でカードにぎっしり書いてある。
人柄がしのばれる。

ドナーの手紙の内容は公開すべきではないが、非公開のラクダの場ということで少しだけ紹介する。
「手紙書くのが遅くなってご免なさい。いつも書こうと思っていたのですが、 漢字を書くのがおっくうでなかなか書けず、やっぱり英語で書くことにしました・・・」
13年前に米国に渡った日本人の若者である。今年、大学を卒業する予定だという。 昼の間、働いて、夜、単位を取るため学校に通っている。 卒業後は今の会社にそのまま就職する手はずになっているらしい。妻からの手紙を欲しがっている。

ハッチのコーディネータが付箋にメモをつけている。
「先方のコーディネータにあなたの妻が死亡したことを知らせます。 先方のコーディネーターがドナーにもそのことを知らせるでしょう」
ドナーの気持ちを思うと胸が痛む。
自分が骨髄を提供した人のことを毎日のように考えていたのだろう。
妻から手紙が来るのを心待ちにしていたのだろう。
がっかりしたのではないだろうか。
どう受けとめているのだろうか。

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でも、ドナーに事実を伝えてくれてうれしい。
早くドナーに手紙を書いて説明しよう。移植がどれだけの希望と夢を与えてくれたか。 そして妻がどれだけ頑張ったかを。

とてもありがたい手紙だ。宝物のひとつになった。

「4月27日」

妻のドナーに手紙を書きました。
手紙を書きながら、さすがに感情が抑えられなくなりました。
ハッチのコーディネーターに送って転送してもらいます。

あとになって知ったのですが、米国では骨髄が到着したときにドナーからのカードが添えられていることがあり、 患者もそのときにドナー宛のカードを骨髄運搬人に託すことが多いです。 また、移植後はいつでも文通が可能です。ただし、コーディネータを通してであり、 個人を特定する情報は盛り込めません。 ご承知のとおり、1年たったら互いに名乗り出て、会うことも許されます。
そういえば以前に、米国のパソコン通信上の移植患者の交流場所、ボーンマロートークに、 あるドナーが骨髄を提供した患者の死について書いた文書があったので引用します。 このドナーは、ドナーになることは素晴らしい体験だったこと、患者が助からなかったことを知っても、 できればまたドナーになりたいと言っています。

Hi Friends,I'm sad to say that Robert (my bone marrow recipient) died last night Jan.9th at 10:45pm. His wife and sons were with him. He contacted a respiratory disease known as Aspergillosis. This condition was unrelated to the transplant for CML back on April 11th, but his weakened immune system was unable to effectively combat it. Some of you BMT-Talk "old-timers" may remember me. I did my best to help him have a fighting chance. We exchanged many letters, via the blood center's editors, and we became like brothers. In fact he called me "Bubba" which he said means brother. His last words to me in my Dec.2nd letter were: "I wish good health and happiness and fellowship to you. Please stay in touch with me, I am sorry that I was late in getting back to you. However, I hope you understand. Again, we appreciate so much what you have done for me and my family. This is your blood brother "Bubba" signing off for now. Stay in touch! Thank you!"
Diana Hinnrichs was kind enough to donate webspace for my donation story at:(*1) I received hundreds of nice responses from all over the world. I just hope I've been able to help others as a result of my experience. It was a strange, yet wonderful situation to be in. When us donors get into this whole process of donation, we prepare ourselves to carry this emotional baggage of being part of a life or death struggle for someone we don't even know. I guess one is never fully prepared for it, though. I'd still do it again.

*1.Mike's Marrow Donor Story
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