「移植後36日目〜40日目」
「移植後36日目」 通院生活:当面の外来スケジュールは血液採取が毎日、医師の検診とX線が週に一回。 免疫抑制剤の血中濃度も週1テスト。あとは自覚症状があれば、医者に電話して指示をあおぐ。 どういうときに電話すべきかのリストを渡されている。 栄養剤入り輸液を毎日1.5リットル自分で点滴。薬は6種類程度のむ。 摂取した食事はすべて記帳して栄養士に提出。 今日も外来に血液検査に行く。看護婦のドロシーが駆け寄ってきて、妻を抱きしめて泣きじゃくる。 「人一倍大変だったわね。ずっと心配していたのよ。入院病棟の友達の看護婦にあなたの経過は聞いていたの」。 成分輸血を検討していたことも知っているドロシーは、「拒絶」の可能性も含めて自分のことのように 心配してくれていたのだ。 たくさんの患者さんを見ながら、一人ひとりのことを気にかけることができる看護婦さんは素晴らしい。 「移植後37日目」 血液検査に行く。 口内炎が少し悪化したので看護婦さんに看てもらうが、とくに今すぐ手をうつほどではない。 下痢は止まる。 昨日は経口で水分1.2リットル、みだくさんスープ(ライス、白菜、ダイコン、麩、豆腐、 かつおぶし入り)など6カップ(1.2リットル)とる。 今日はうどんとさつまいも、コーヒーゼリーなどを食べる。 お風呂は毎日自分で入っています。 疲労感は隠せないけれど、家の中をあちこち歩いているだけで、相当の運動量は確保できていると思う。 入院中、どんなに辛くても毎日シャワーとエキササイズを“強制”されたことは悪いことではなかった。 カウントはボーダーライン以上。まだ退院してから輸血は必要になっていない。 ☆みなさん、祝福ありがとうございます。 まだまだ油断はできないけれど、今はまず、ここまでやってこれた自分たちを誉めてやりたいと思う。 「移植後38日目」 朝、栄養士に食事内容をレポート。明日から栄養剤入り輸液は1リットルに減った。 口腔医に口内炎を見せたところ、ステロイドクリームを処方される。 腕に発疹が出たのでお医者さんに相談したら、明日、正体を調べるため生検になる。 スーパーに外出(通院以外の始めての外出)し、クリスマスの飾り付けを買う。夕食作る。 |
☆フレッド・ハッチンソンの外来部門の様子を少し紹介しておきましょう。 大部屋がひとつと小さな診察室が15室ほどあります。 小さな診察室では予約があった定期診察や、隔離状態の患者の診察があります。 ナルホドと感心するのは、大部屋のレイアウト。大きなリクライニング椅子とベッドが10個ほど ずつあり、20人ほどの患者が入れます。それぞれの上にテレビがぶらさがっています。 ここで輸血、診察、点滴などが行われます。必要なときはカーテンを閉めるだけで個室化。 看護婦さん7人程度が患者20人ほどを受け持ちます。 大部屋なので看護婦・夫さんにとっては、部屋を出入りしなくて良いのでとても便利。 患者にとっても、見えるところにいつでも看護婦さんらがいるので安心です。 看護する人々はとても効率よく働いています。 ニューヨークのスローン・ケッタリングは、外来で輸血などをするとき、 2人用入院部屋を4人用処置室に改造して使っていたので、すごくかったるかった。 いくらナースコールのボタンを押しても、なかなかだれも来てくれなかった。 ハッチのやり方はデザインの勝利。米国人って、オフィスレイアウトがうまいと思う。 日本は工場の設計はうまいのに、オフィス系は苦手なのかな。 でもスローンの受付・待合い室は、銀行の大口顧客用応接室のノリでとても心地よかった。 ゆったりとしたピアノ曲なんかが流れていて、パニック状態の精神を落ち着かせてくれた。 あれも工夫だと思う。 今の病院のスタッフのうち2人は頭をそり上げています。 一人は若禿なのでいっそのこと剃ってしまったとのことですが、 抗ガン剤の副作用から脱毛してしまう患者さんには、好感と親近感をもって受けとめられています。 自分も剃ってしまおうという心意気やよし。 「移植後39日目」 看護スタッフさんだけによる検診。 口のステロイドクリームは止めて、元のステロイド液によるうがいに戻す。 皮膚生検(小さな標本を切り取る。痛い)。胃痛を訴えるが、市販の制酸剤を買って飲むように言われる。 輸液の点滴を夜中にすべきか、日中にすべきか、それが問題だ。夜すると頻尿で眠れなくて辛い。 昼にすると点滴栄養でカロリーが入るので食欲が減退する。 ここ2日は昼にしたので、食べる量が激減してしまった。胃痛の原因は何だろう。 腎臓の状態を示すクレアチニンがわずかに上昇し、同時に免疫抑制剤の血中濃度がわりと高めと 確認されたので、腎臓負担を減らすため免疫抑制剤(FK506)を一回4錠から3錠に減らす。 また、スーパーに買い物に行く。少しずつ、行動が大胆になっていく。 外出後はさすがに疲れて、ちょっと休む。 「移植後40日目」 血小板輸血をしてから髄注(脊髄への抗ガン剤注入。中枢神経系からの再発を防止するため)。 髄注には5万以上の血小板値が必要。輸血前にも53000あった。 輸血後は69000に上がったので余裕。今日のお医者さんは腕が良かった。 腎臓の状態を示すクレアチニンが上昇。免疫抑制剤のFK506を一回飛ばす。 皮膚生検の結果はマイルドなGVHD(移植片対宿主病)。ウイルスや白血病細胞は検出されず。 現状ではGVHDについて特に追加治療なし。夜、胸に発疹が広がっているのを発見。 下痢ひどくなる。 | |
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「移植後41日目〜45日目」
「移植後41日目」 朝、血液内の免疫抑制剤レベルを測定。血液比重が下がったので、全血を2袋輸血。 治研に参加している、免疫グロブリンの点滴もする。外来に6時間以上滞在。 医者は忙しくて全然みに来なかった。下痢わずかに軽減する。 「移植後42日目」 広がった皮膚のGVHD(移植片対宿主病)は治療が必要な段階に至る。 全身の40%程度に広がりグレードは4段階の2(1が軽く、4が重い)。 腹痛も消化管のGVHDとみられる。ステロイドであるプレドニゾンの大量投与が始まる。 プレドニゾンなしでいけるのではないかと思い始めていたので、ちょっとショック。まあ仕方がない。 非血縁の場合は半分以上の患者がこれのお世話になるのだから。 2日間は点滴から入れて、そのあとは錠剤に。7〜14日連続投入して状況を見ながら減量していく予定。 プレソニゾンは使うときはいきなり一定量以上の大量投与が必要。 足りなくてあとから増量しても効かないからだ。 下痢で経口薬の吸収が難しいので免疫抑制剤のFK506も点滴になる。 またクレアチニンが上がっており、尿も減り、脱水ぎみなので、水分を持続点滴。 プレドニゾンの副作用は血糖値上昇とむくみ。だから禁・糖分食。下痢のため、固形分も禁食。 水も控える指示。食欲あるのでつらい。 基本的には入院せず外来での加療を継続。FKとプレドニゾンは朝と夜の2回通院で、あとの水分と 栄養剤の点滴は自宅で。24時間点滴体制だ。 通常は2、3日のプレドニゾン使用で好転するとのこと。そうでなければ再入院もありえると言われる。 40日目に脊髄から採取した標本は白血病細胞が見つからずグッドニュース。 子供の学校は今日が終業。明日から冬休みだ。 妻は白血病患者が主役のドラマ「生きること」のビデオを観て、遅くまで起きていた。 |
「移植後43日目」 下痢は少し軽減。皮膚の発疹もまだ軽減はしていないが、広がる気配はないので、入院は避けられそう。 腹痛も落ち着いている。 24時間点滴体制続く。患者は夜中の頻尿、介護者は深夜の点滴バッグ掛け替えがある。 自覚症状はとくになし。元気レベルも高く、台所仕事を一生懸命やる。 点滴したままスーパーに買い出し。 帽子、マスク、マフラー、肩には携帯用点滴バッグで異様ないでたち。でも気にしない。 ☆クリスマスシーズンはいろんなものがもらえる。けっこう、うかれてしまっている自分を発見する。 患者全員にテディベアのぬいぐるみが一匹ずつ配られた。 受付には手作りのカードやぬいぐるみなどが山積みで「ご自由にお取り下さい」。 ボランティアがアパートにクリスマスツリー(感染症が心配だから、もちろん生木じゃない)を届けて くれた。 病院内のあらゆるところに、クッキーやチョコが置かれたので、つい甘いもののとりすぎになる。 いろんな人が患者家族が少しでもクリスマスシーズンに気持ちがなごむように気をつかってくれている。 ☆惑星科学者のカール・セイガンさんがフレッド・ハッチンソンで死去された。 セイガンさんのことは外来でときどきみかけた。外来で治療中に席が隣になったこともある。 このところ916号室に入院し、最近はICU(集中治療)扱いだった。 昨日、入院病棟を通ったとき、916号室が空室になっていたので、よもや、と思ってはいたのだが、 ときどき姿をおみうけしていただけに残念。 前骨髄性白血病で95年4月に骨髄移植を受けていたが、 その後も、ハッチで何度か追加加療を受けていた。結局、免疫抑制からくる肺炎が致命的になった。 ずいぶん前に何冊か著作を読んだことがあるが、偉大なる科学者、啓蒙家、反骨の人であり、 地球外生物への信念や環境問題への発言など、やさしさの人でもあったようだ。 米国の新聞には、彼のこんなコメントがあった。 「みなさんに、死にそうな目にあうことを薦めます。そうすれば何が人生で大切かわかる。 また、後生に何をのこさなければならないかも分かる」。 彼らしい発言だが、結局、病気が命取りになってしまったのは残念だ。 病魔と闘いながらも、最後まで惑星学については発言を続けていたようだ。合掌。 | |
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「移植後44日目」
食事は一番制限が厳しい「GVHD患者用1」(流動食主体)が適用されており、 かつプレドニゾンをとっているので、禁・糖分食が重なる。 口当たりがよく、こんなときに患者の手が出やすい、アイスクリームなんかも駄目。 米も炭水化物が糖分に転化するので好ましくない。 プレドニゾンの副作用である食欲亢進があるので、食欲との闘い。 高血糖を避けるため、夜から点滴のベースを糖分(デキストロース)が低いものに切り替える。 マッチ箱二つ分ぐらいの小さな血糖値測定マシンに驚く。 昔は2時間かかっていたらしいが、今は1分で分かる。午前中の血糖値は異常に高い。 血糖値を下げるインシュリン注射を検討。午後の再測定ではそれほど高くない。 午前中、看護婦さんが測定するとき、家から続けていた点滴のスイッチを一旦停止せずに、 採血してしまったので異常値が出たようだ。結局、夜の輸液に少量のインシュリンを注入。 週末担当医の検診の結果、GVHDはプレドニゾンに反応して好転していることが確認された。 今日から、プレドニゾンを経口の錠剤にし、明日から、FK506も経口に戻す予定。 ☆「カルテは誰のものか−−患者の権利と生命(いのち)の尊厳」(和田努著、丸善ライブラリー)を読み始める。 カルテは患者のものに決まっている。こんな問いをしなければならないのだから、日本の状況はしんどい。 でも、米国でも20年ほど前は今の日本と似たり寄ったりだったのだ。日本でも変わっていくだろう。 問題はそのペースと質だが。 以下、私たちの体験から。 最初、妻がスローン・ケッタリングを訪問したときにはカルチャーショックを感じた。 まず入院受付で受け取る書類キットの中に「患者の権利宣言」が入っている。 病室に入ると引き出しにまた「患者の権利宣言」がある。そして、看護婦さんが最初に説明することが 「患者の権利宣言」だった。 「患者は思いやりがある治療を受ける権利がある」「患者は知る権利がある」 「患者は拒否する権利がある」「患者は感情を表明する権利がある」などとあった。 ずいぶん、安心感を覚えたのを記憶している。 このひながたが1973年にアメリカ病院協会が制定した「患者の権利章典」であることが、 この本を読んで分かる。 米国では診察のとき、患者は目の前にあるカルテをいつでも見ることができる。 医師、看護婦・夫も目の前で開いて指をさしながら、説明してくれることも多い。 外来で治療の間中、患者の目の前にカルテが置きざりになっていることもある。 そんなときは、なるべく、めくって目を通すようにしている。 また、情報開示申請書にサインすれば、すぐコピーをくれる。 96年秋に、必要があってカルテの一部をもらったときには、2時間ほどでやってくれた。 ニューヨークからシアトルに転院したときには、情報開示書にサインして10日ほど あとにコピーを受け取りにいくシステムだった。 また、転院のとき、標本、X線などもすべて快く渡してくれた。ただし、米国では事務処理レベルが低い。 書類作成の渋滞が起こっていたり、保管整理が悪く、古いカルテ発見に時間がかかることが、ままある。 米国では「国語=英語」でカルテが書かれているという要因もある。日本ではかつてはドイツ語で 今でも英語で書かれているという障壁がある。見てもよく分からない。 |
米国ではカルテのねつ造は日本よりやりにくい。
回診やカンファランスのとき、看護婦さんやカルテ作成担当者が同席する。
カンファランスの記録などは、医師がテープに吹き込み、それを作成担当者がタイプする、
というのが普通。
複数の目で相互チェックが効いている。
また、誤診よりねつ造は罪が数倍重くなるので、訴訟社会の米国では誤診を認めた方がましと判断する
場合もある。 また、「患者苦情処理窓口(PATIENT ADVOCATE)」や「品質管理」と呼ばれる、 患者の不満を患者の立場に立って解決する担当者がいる。 われわれも大きなものから小さなものまで、いろいろ問題提起(差別的対応、カルテ作成の遅れ、 医療過誤など)をして、協力してもらった。 本当に病院サイドでなく、こっちの立場でやるようにみえるので驚いた。 大きな問題は、病院の「品質保証プロセス」というのにかかる。病院の幹部が参加する。 役員会のメンバーは病院の経営陣とほとんど重なっておらず、有識者や地域代表が含まれている。 この三権分立の有無の違いは、日本と米国の企業の統治の仕組みの違いにも似ている。 日本では実質上のオーナーが社長で役員会の会長も兼ねているといったことが多い。 米国ではそういうことは少ない。 もうひとつ、少し微妙なテーマになりますが、リビング・ウィル(生前の意志)について。 移植前に、全員にリビング・ウィルの書式と説明書が配られ、ソーシャルワーカーが指導します。 また、遺書も書くことを勧められます。 日本的な発想では、そういうことをすると縁起が悪いという気がしますが、 こちらでは「不要であるのにこしたことがないが、リスクがある治療をするのだから、 やっておくのが責任である」という発想です。もっとも、書くか書かないかは全くの自由。 スローン・ケッタリングのソーシャルワーカーは子供への手紙(遺書)を書くことをこういって妻に勧めた。 「ある母親を知っています。自分が助からなかったときのことを考えて、 移植前に子供が10歳、15歳、20歳になったときに読むための絵本を遺した。 移植は成功したが、その絵本は無駄にならなかった。 今、子供といっしょにその絵本を読むことが、家族の絆を強くすることにとても役だっている」。 「カルテは誰のものか」はなかなかの好著。上のようないろんなテーマを考えさせる。 ちょっと机上の議論的で具体性にかけるけど、問題点整理と知識補充には十分。 「移植後45日目」 栄養士と会議。食事制限は「GVHD患者用2」クラスに緩和される。 禁・糖分も絶対禁止から「できるだけ制限」に変わる。魚の白身、鳥笹身、おかゆ、スープなどはOK。 口内炎はまだ痛むので、鎮痛剤もらう。 点滴は24時間体制(一日2.5リットル)から8時間程度(1リットル)に減少。 食事から栄養が取れているので、今日から栄養輸液はなくなり、マグネシアム、カリウム入りの水だけ。 昨日は病院に計7時間ぐらいいたが、今日は3時間強。 来週から外来での滞在時間は大きく減りそうと期待。 ドラッグストアでショッピング、クリスマスケーキ買う。 ☆タイム・マガジン買う。 マン・オブ・ザ・イヤーが台湾系移民のエイズ研究者デヴィッド・ホー氏(いわゆるエイズ・カクテル 療法の推進者)に贈られたという記事に興味がある。 少し前のニューズウィークの特集は「ガン抑制遺伝子P53」を扱っていた。買おうと思っていたが、 もう書店からは姿を消している。インターネットから取り出そうっと。 | |
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「移植後46日目〜51日目」
「移植後46日目」 クリスマス・イブ。子供の7歳の誕生日でもある。クリスマス・ケーキを食べて大量に砂糖と脂肪をとる。 お腹の具合は大丈夫だが、血糖値が心配。まあ、今日ぐらいは許されるだろう。 免疫抑制剤のFK506が一回3錠から2錠に減る。血液検査が毎日から週3回になる。 米国版の「らくだのHP」である「ボーン・マロー・トーク」の中で、旧友エリスを発見。 病院でずっとなじみの顔だったが、妻が入院中に挨拶もせず、連絡先も聞かないうちに、 ホームタウンのニューヨークに帰ってしまっていたのだ。これで会話が再開できる。 彼女は慢性骨髄性白血病(CML)で、非血縁6分の6ドナーからの移植。 移植後28日で退院し、入院中、経口から食事が取れなかったのはたった1日だけという、つわものだ。 でも、まだまだ小さなトラブルがあり、ボーン・マロー・トークへの登場となったようだ。 それと今日は、ドナーと面会した患者の感想文が出ていた。 1年経ったら、僕らも対面に挑戦すると、妻と再確認。 |
「移植後48日目」 週一回の免疫グロブリンの投与の日。 妻たちは家に残して、甥たちとNBAバスケットを観戦する。やっぱりナマは違う。 数十年ぶりの豪雪という天候不順をおして会場まで苦労して駆けつけただけに、観客は無茶苦茶盛り上がる。 「移植後49日目」 天候不順で病院は休業状態。町の交通は完全にまひ。 医師から電話で、特に問題がなければ病院にくる必要がない、との連絡。 要するにお医者さんも病院に来たくないのだ。こうして、週1回の医師診察は延期。 でも、血液採取と点滴用輸液補充にだけ行く。 たまたま借りているレンタカーが4WDのチェロキーでよかった。至る所で車が立ち往生している。 病院スタッフも、ほとんどみんな家で天候回復を待っているありさま。 51日目からプレドニゾン錠剤は一日120mg 「移植後50日目・51日目」 はじめて病院の用事は何もなし。病院には一歩も足を踏みをいれなかった。ゆっくりと週末を過ごす。 体調は少し体がだるい程度で、ほぼ平常の日常生活に近くなってきた。 中学生の甥にインターネットを教える。すっかりはまってしまった。先が楽しみだ。 | |
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「移植後52日目〜55日目」
「移植後52日目」 栄養士との定期会合。 水分は経口で毎日2000CC取れている。これが2400CCになれば、家での点滴はなくなる。 プレドニゾンで筋肉が落ちるのをおぎなうために、蛋白質をもっと取る努力をするように、とのアドバイス。 血糖値は安定しているので、あまり糖分は神経質にならなくても良い。 階段昇降など、エキササイズを増やすようにも言われた。 「移植後53日目」 大晦日。 検診でGVHD(移植片対宿主病)はほぼなくなったと確認される。懸念すべきテーマはほとんどなし。 夜10時過ぎ、アパートのロビーに患者家族が5軒ほど集まってミニパーティと新年の瞬間のカウントダウン。 移植後54日目のニュージャージー州の人、クエート人で移植後1年後診察に来ている人などなど。 外からみたらちょっと異様な集団かも知れないが、患者同士の安心と連帯感があった。 |
「移植後54日目」 元旦。 今日から自宅での点滴は半分の500CCに減った。子供たちをインターネット・カフェに連れていく。 昨日のニュージャージーのおじさんに地下の駐車場で出会う。 毎日ここを15周するのをノルマにしているとのこと。よくしゃべる楽しいおじさんだ。 他の患者にいろいろ教える(説教する)のが趣味みたい。でも偉い。 「移植後55日目」 定例の週一回の免疫グロブリンの投与と胸部X線。 ☆1月1日付けの地元紙に、フレッド・ハッチンソン内の付属学校について記事が大きく取り上げられた。 うちの息子も最初2カ月ほどここに通った(今は地元の私立学校に入れた)。 ここでは、毎日、朝一番に全生徒のミーティングがある。私も出席したことがある。 生徒が患者である父や母や兄弟の病状、それについてどう感じるかを一人ずつ述べていく。 「お父さんは人工呼吸器につながれたままで、時々ひどくぜいぜいと苦しがる」と言ったように。 子供たちが病気のことをとてもよく知っていること、先生が子供たちに感じることをなるべくしゃべら せること、先生がそれをうまく受けとめてやること。そんなことが印象に残った。 重く感動的な時間だが、決して子供たちに悲痛さはなかった。参考になるやり方だと思う。 | |
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「移植後56日目〜61日目」
「移植後56日目」 GVHD(移植片対宿主病)が完全にコントロールできているので、抗炎症剤のプレドニゾンを 一日90mgから60mgに削減。免疫抑制剤のFK506は低レベルの1日4mgだけ。 一方で「プレドニゾン削減症候群」が問題になる。 プレドニゾンの投与量を減らしていくとき、骨痛、筋肉痛、精神的不安定などを招くことが多い。 骨痛が出る。 「移植後57日目」 カリウム値とマグネシウム値が低く、家にあった点滴液を外来に持参して中に両方を注入追加してもらう。 ショッピングモールで3時間元気に買い物。人混みに始めて出た。 「移植後58日日」 骨痛、全身痛あり。「プレソニゾン削減症候群」だろうか。あまり活動的でない一日。 「移植後59日目」 栄養士相談日。水分、食事摂取ともほぼ完璧。 強いて言えば、カルシウムをもう少し取った方がよいという程度。 読売新聞科学部記者から草稿届く。若干の修正と意見を添えて返送。 わが家のことも「Aさん家族」として出てくる。数日中に掲載されると思う。 みなさん、読んでみて下さいね!!。 「移植後60日目」 担当医に中期的展望を聞く。 移植後90日から100日目をめどに、この病院(移植センター)から解放され、 普通の血液内科に戻されるとの見込み。シアトルを離れていいというわけだ。 たぶん、このころに日本に帰国することいなるだろう。 ただし、それまでにプレドニゾンと免疫抑制剤がほぼ不要になっていなければならない。 プレドニゾンの今後1カ月の削減計画表を渡された。今日から自宅での点滴がなくなった。 すべて錠剤のみ。点滴の準備の仕事がなくなって私はホッとする。 「移植後61日目」 血液比重が下がったので、久々に赤血球を2単位輸血。 骨髄移植で血液型がO型からB型に変わるはずだが、まだ輸血する赤血球の型はO型のまま。 赤血球の寿命が3カ月ぐらいなので、移植後3カ月ぐらいまでは、O型のものの方が多いらしい。 移植後の血小板輸血はOとBの両方があった。血小板では血液型はあまり重要ではないらしい。 ややこしい。 パタシアム(カリウム)を点滴から錠剤に切り替えたら、腹痛が出た。 以前からパタシアム錠剤とは相性がよくない。 |
△いわゆるドナー・ドライブ(骨髄バンク登録者獲得イベント)の好例がいまボーン・マロー・トークに
出ています。
ユダヤ人のドナーを増やそうという活動を推進している人がさかんに宣伝活動をしている。それによると、、、 「イスラエル内で70人、全世界で300人のユダヤ人患者が非血縁ドナーを待っている。 患者家族の名前をつけて、慈善団体が資金を出して、ドライブが行われる。 イスラエルからは、米国に一回1500人程度の血液が送られてタイピングされる(台湾でも同じ方式)。 タイピング費用は一人当たり約40ドル(安い。日本では個別にやると約3万円ぐらいのはず)。 米国のJFさんは、この自分が主体になったドライブで5万5千人(うち1万人はイスラエル在住。 あとは米国在住)のドナーを集め、何とその中に自分の適合者がいて移植を受けた。 SHさんは1万人集めた。英国在住のDBさんは5万人目標のドライブを始めた。 去年はドイツ(ユダヤ人も少なくない)のバンクが猛烈に頑張った。 TV局の有名ホストが音頭を取り、1年で10万人増やし、40万人になった。 ドイツも米国に送って一括テストしている。 新規登録者の情報はすべて米国の骨髄バンク(NMDP)にリンクされ、世界中のユダヤ人らが恩恵を 受けている」 △もうひとつ凄い話。 このほど「バイオ・セーフ」という新しい骨髄バンクが米国で立ち上がった。 やり方が革新的。指先を少しカットして出てくる血を特殊な化学紙につける。 ラボでそこから免疫の型を分析する。これまでドライブは一回5000人が限界だった(普通は2000人以下)。 米国の検査所が一日に作業できる作業処理能力がそこまでだからだ。 だが、新方式では紙につけて乾燥した血は半永久的に安定していて、いつでも検査できる。 また、素人ボランティアが採血作業できて、採血技術者が必要ない。 病院や赤十字からスタッフを呼ばなくてよい。検査キットもひとつ6ドルと安い。 この新バンク、目標では、なんと97年1年間に100万人を集めるという。 問題は、これが立ち上がると2つのバンクができてしまうこと。ドナーや患者が混乱するかも。 また、この検査キットの発売元がバンクの主体となろうといていること。 さて、この新骨髄バンク、どれほど現実性のある話だろうか。 でも、技術革新の可能性をあらためて考えさせてくれる。 | |
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