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6「セカンド・オピニオン(患者が医師を選ぶ)」

◇うらみっこなしよ◇
  米国と日本の大きな違いのひとつが「セカンド・オピニオン」を巡る差異だ。セカンド・オピニオンの取得は米国では正々堂々と行われる。日本ではまだ例が少ないし、やるときには日陰でやましいことをするようなイメージが払拭できない。
 米国では、骨髄移植や白血病治療、さらにはガンの手術や化学療法などのような大きな治療では、セカンド・オピニオンを取るのが社会的常識だ。医師の方から「セカンド・オピニオンはどうしますか」と訊ねる。セカンド・オピニオンを取る先を元の主治医が紹介することも多い。もちろん患者が選んだ先にしてもよい。あっけらかんと行われている。納得できなければサード・オピニオンをとってもいい。そうする患者さんも少なくない。
 セカンド・オピニオンを取るにはどうすればいいのか。希望する病院に電話をするだけだ。時間の予約をとり、紹介元の主治医からカルテ(必要ならばレントゲンフィルムも)などをもらって、照会先の病院に持参。検診を受け、医師とコンファランス(会議)をもつ。そこで意見の概要は聞けるし、後に患者と紹介元の主治医に正式に文書で見解(オピニオン)が届く。
 どの医師にセカンド・オピニオンを取ればいいか、それが分からないときも多い。それは主治医に相談してもいいし(米国では通常は主治医の裏でことを進める必要はない)、保険会社や骨髄バンクや全国各地にある白血病協会に訊ねてもいい。インターネットの患者の会に訊ねるのも手っ取り早いし、自分でインターネットを検索して医学論文から誰が権威が探ることもできる。
 米国の民間保険会社では高額医療を受ける患者には看護婦資格をもった担当者をつけて個別審査をしている。高額医療をなるべく適切な費用ですませようと、保険サイドからのチェックを行うためだ。患者が優秀な機関で治療を受け、治療が成功すれば医療費削減につながる。この点において患者と保険の利害は一致する。保険会社には多くの患者さんの治療結果が集まっている。だから病院の成績も大体把握している。

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 また保険会社が特別契約をしている病院を選択するのも考慮に値する。保険が「その病院からの請求は全額カバーします」としているところだ。それは保険が「その病院に患者が行けば総額医療費が安くつくから全額を支払ってもいい」と考えていることを意味する。これも成績の間接的指標になる。
 (米国では病院によって医療行為に請求する金額が違う。たとえばニューヨークのマンハッタンにあるスローンケッタリング病院と隣のニュージャジー州のガン病院では料金が違う。スローンケッタリングの方が、医師の給与をはじめとした人件費が高いし、病院施設の取得・賃貸・維持などにかかる費用も多くなるからだ。保険はスローンケッタリングにもニュージャージーの病院にも同水準しか払わない。中産階級以上が入っている保険は高額医療には全額支払うのが普通だが、それは病院が請求する全額ではなく、保険が「その地方の医療コストとして適切とする全額」である。スローンケッタリングの請求額の8割程度しか、保険は適切と認定しなかった。あとは基本は患者負担になる。医師と交渉して値切るということも日常的に行われている)
 多くの保険がセカンド・オピニオンの取得費用、さらには転院にともなう家賃負担などを一定限度額内で負担してくれる。日本でもこうした方向に進むのが望ましいと思う。
 「急性骨髄性白血病の骨髄移植をどこでするのがいいと思うか」という質問を米国白血病協会に電話して訊ねたことがある。数カ所の名前を挙げてくれた。白血病協会は病気ごとの病院の得手不得手までつかんでいた。全国的に有名な病院でも慢性骨髄性白血病の成績がよくても、急性骨髄性白血病は必ずしもそうではないところがあることも分かった。
 米国の骨髄バンクは、病院別・疾病別の非血縁骨髄移植の症例数を定期的に発表している。また病院ごとの治癒率がおおよそ把握できる資料もあり、患者が請求すればすぐ分厚い冊子を郵送してくれる。こうした資料から患者は病院の選択をすることができる。日本の骨髄バンクは公式には公表していないが、日本の認定病院別の症例数が97年11月からhttp://www.marrow.or.jp/で見れるようになった。

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◇セカンド・オピニオンの合理性◇
 米国ではセカンド・オピニオンは医療行為の統治(ガバナンス。関係者たちの権利と責任の調整と相互監視のシステム)メカニズムとしてそれなりに機能している。
 医師は他の病院との競争を常に意識する。意見の違いはあってもいいが、不適当な治療方針の推薦をすると、後で恥をかく。医師は常に緊張感にさらされている。セカンド・オピニオンは照会元の主治医にも届くから、勉強になる。平和裡に転院したときは、元の主治医に定期的に(1週間に1度程度)経過が報告されるのが普通だ。セカンド・オピニオンの取得や転院が円満に行われている。空けっ広げの、うらみっこなしのやり方は患者に心理的負担を与えない。もちろん、医者や病院とトラブルになったときは、転院とセカンド・オピニオンの仕組みが整っていることが、患者にとって重要な安全保障になることは言うまでもない。
 ニューヨークからシアトルのフレッド・ハッチンソン病院に旅立つとき、スローンケッタリング病院の主治医だったガブリラブ先生は「シアトルは世界一の移植病院よ。あなたたちの選択は間違っていないわ」と言ってくれた。不安で一杯だったわれわれに、この言葉がどれだけありがたかったことか。
 保険は医療費削減と治療の成績率向上に関心をもつ。もちろん、過剰医療には一番目を光らせる。患者は、自分の治療方針について質問をし検証することができる。主体性を保てる。もっとも、選択は自分の責任でもありすべてを人のせいにすることはできない。医師は自分の社会的評判というリスクを背負って、自分の推薦治療を提示する。

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 セカンド・オピニオンは三権分立の基本だ。
 日本では転院はまだまだタブーに近い。相当の覚悟がいる。日本に戻ってから知り合ったある患者さんは、転院を決心して元の主治医にその旨を告げたところ。カルテももらえず、「どうなっても知りませんよ」と捨てゼリフを吐かれたという。別の患者家族は、私のホームページに次のような意見を寄せてきた。「セカンドオピニオンを聞きたいと主治医にお願いしたところ、相手の不快な気持ちと怒りがこちらに伝わってきたことを覚えております。はっきりいって患者はお客様でもなんでもなく、医者が権力者であることを感じずにはいられませんでした」。これは例外的なことだろうか。
 日本では、質問することが後ろめたいことであるような気にさせられる。患者は医師を疑うだけで罪悪感をもってしまったりする。医師が全権を握っており、チェック機能がないから、患者には逃げ道がなく、どうすることもできない。米国では医師と患者はどちらも完璧でないという前提に立っている。そのなかで、互いにできる範囲の妥当なことをやるというのが基本スタンスだ。ボクは個人的には医師団と患者は、同じ目的に向かって切磋琢磨する同じチームのメンバーだと思っている。
 「米国でセカンド・オピニオンの弊害や、情報公開の副作用が問題になりはじめた」といった点をことさら強調する人々がいるのには驚く。いってみれば、医療について米国は民主主義であり、日本は封建主義のままである。民衆主義の方が正しいのは疑問の余地がない。もちろん民主主義は運営が難しい。だから米国が試行錯誤しているのも事実である。だからといって民主主義にしなくていい理由にはならない。米国の模索する姿をみて、遅れて民主化する日本が、より新しい姿の民主化を目標にすればいいだけだ。米国の進んだ点から謙虚に教訓を学ぼうとしない人々が、自分たちの改革のアイデア(対案)を示しているのをみたことがないのだが・・・。

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7「カルテは誰のものか。情報開示」

◇「カルテは患者のもの」が米国の常識◇
 「それは問題ね。カルテは患者のもの、なんですから」。妻が入院していた病院(フレッド・ハッチンソンがん研究センター)の医療サービス管理部長のエレーナ・ウエイトさんは、そう言った。
 「カルテを下さいといってから、1カ月以上も放ったらかしだったんですよ」。廊下ですれ違ったとき、ボクが漏らした苦情への返事である。
 そう、「カルテは患者のもの」なのだ。督促したら、1週間ほどで約3000ページにわたる全カルテを受け取った。
 米国では一枚の書類にサインするだけで、患者はいつでも自分のカルテの写しを受け取ることができる。カルテを要求したからといって、特にコトを荒立てていることにはならない。
 もっとも、すぐ受け取れるとは限らない。かかる時間はまちまちだ。これは、米国では家具を買って「翌日に配達する」という約束になっていても、その通り来ることが滅多にないのと似ている(米国に住んだ5年間で、こうした日常的なサービスレベルがかなり改善されたのを感じた)。カルテが行方不明になっていたり、コピー作業に時間がかかったり、順番待ちがあったり。それでも原則的には、転院のときは2〜3週間で全コピーが受け取れる。特定のページなら数時間で取れないこともない。その気になれば、全コピーも1週間ほどでやってくれる。
米国ではカルテが患者の身近にある。外来病院で治療中に手元にカルテのホルダーが置いてあるときには、多くの患者や家族がペラペラとめくって読んでいる。ボクも極力そうするようにした。廊下には全員のカルテのホールダーが乗った台車を目にすることもある。
 患者がカルテを閲覧できることは素晴らしい。自分の病気について理解が深まるし、医師団との一体感が高まる。米国の患者はうらやましい。母国語でカルテが読めるからだ。ボクには英語のカルテを読むのはかなり疲れる作業だ。会議の議事録や退院時の入院記録など、タイプしてあるものはまだましだ。その他の手書きの日々の記録は癖のある筆記体で書かれており、謎だらけ。英語で育った人には、それほど苦にならないだろう。
  ボクは手元にある妻の約3000ページのカルテの山から、ときどきあちこちを部分的に取り出しては読む。コンファランスの記録を読めば、そのときの様子が鮮明によみがえる。もっとも、公式記録には微妙なニュアンスは省かれ、医師の立場から「患者家族からの質問がなくなったところで打ち切った」「治療方針に患者家族は同意した」などと簡単に書いてあるが。

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 さまざまな検査結果――。骨髄せんしなどの結果は口頭で、「寛解を維持しています」「再発しました」と知らされる。しかし公式ペーパーを見ると、複雑な過程をへて判定されているのが分かる。血液学の奥深さをかいまみる思い。
 毎日の看護記録。「あの日は、あの看護婦さんだったな」と記憶がよみがえる。
 移植後の退院のときの記録を読むとすべて順調にみえるだけに、残念さが戻ってくる。
 ときどき、どうしてもみられずにはいられない部分がある。最後の一日のカルテだ。長い長い一日だった。カルテも分刻みで看護婦さんが記録し分量が多い。そして、添付された多くの心電図のチャート。だんだん衰弱していくのが分かる。心電図の妻の最後の一脈――ここに目が釘付けになってしまうのを止めることはできない。このあと波はフラットになった。
◇カルテ開示が医療改革の最短距離◇
 ――あらゆる意味で、カルテは患者や家族にとって、情報の宝庫だ。闘病の記録であり、かけがえのない「資産」なのだ。カルテをすべての患者が国語で読めるようになれば、市民の医療意識は抜本的に変わるだろう。欧米ではこれが空気のようにあたり前なのだ。
 カルテで医療内容を知ることができるだけでなく、米国では患者にレセプト(診療報酬明細)が自動的に届く。患者が自分が受けた医療の細目ひとつひとつのコストを知る。薬ひとつ一つ、それぞれの検査、毎日の回診、日々の入院費、輸血、点滴……。一日いくらかかったか、総額いくらかかったかも分かる。
日本では抜本的な医療改革がはじまろうとしている。医療保険の自己負担を増やしたり、病院によって医療費を違えたりし、レセプトも場合によっては請求すれば開示されることになるという。
 だが、有名病院の外来費用を高めるのは、2章の5項でのべた「外来化」の促進には妨げになる。また、一般患者にも外来の敷居が高くなったりもする。レセプト開示請求もまだまだ非常時の手段のようだ。個別の治療に妥当な治療が、正当なコストで行われるシステムになるように誘導するための仕組みにはほど遠い。まだまだ行政がコントロールしようという意識から抜けられない。情報開示とチェックの仕組みを作ることで、競争原理と相互牽制が、全体のコストを削減する方向に自動的に向くようにシステムを設計してもらいたいものである。
 カルテやレセプトを公開すれば国民の医療リタラシー(識字率=理解力)が上がるのは間違いない。それが医療改革や医療費削減の切り札であり、唯一の最短コースなのだ。もっとも、告知が前提になければカルテを見せることはできない。告知をしない患者さんが相当数いる限り、カルテを患者の身近なものにすることはできない。「告知をしないことの社会的費用」もあるのかも知れない。

3章>>
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