20 「支援チーム解散パーティー」
◇支援チーム解散式◇ |
病院最寄りのホテルで、翌日の宴会室をおさえた。入院病棟、外来、ボランティア、学校関係、それぞれひとりずつに電話し、回りの人々に連絡してもらった。お医者さんには電子メールを打った。趣旨は「告別式でも偲ぶ会でもありません。ただ、みんなで集まって食事をするだけです。手ぶらで来て下さい」。 妻の写真を飾り、サティの音楽を流し、また紫のチューリップをあしらった。来るはずだった入院病棟の看護婦さんたち15人ほどが、その日、重病患者が急に増えたために来られなくなったが、それでも合計40人ほどに参加していただいた。集まった人が自由にビュッフェから食事をとり、テーブルについて思い思いにしゃべる形にした。涙も笑いもある。子供たち8人が大喜びで会場中を走り回っていて、みんなの気持ちを和らげる。 ◇個性と適材適所のメンバーたち◇ 参加者の一部を紹介しよう。 入院病棟のシマさん。日本人のベテラン看護婦である。若いとき日本を飛び出し国際結婚。郊外に住んで畑作業が趣味。お転婆で茶目っ気があり、妻ととても気があった。妻が亡くなる5時間前まで見てくれた。あとになるほど親密になった。 同じく入院病棟の看護婦テリ。長身のスーパーモデル風。若手だが情感が細やかで、まじめで勉強熱心で優秀。息子ととても気があい、良く遊んでくれた。 外来看護婦のパット。シアトルに来た初日に世話をしてもらってからのつきあい。 外来部門患者スケジュール管理係のマイク。お医者さんや看護婦さんは、自分が診ているときだけの妻しか知らない。しかし、彼は妻のすべての治療予定を管理してくれ、妻の闘病の全貌が頭に入っている人物だ。マイクとのワイン・食い物談義は、僕にとって良き息抜きだった。 | |
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備品供給係の日本人シゲコさん。入院中は毎日のようにお見舞いに来て下さった。息子を学校に迎えに行ってもらったこともある。アイスホッケー選手の息子ジョンは、うちの息子のために大事な自分のおもちゃを分けてくれた。 ボランティアのカヨさん。どれだけ世話になったことか。こちらに心理的負担を与えずに、どんどん手伝ってこちらを楽にしてくれる才能がある。始めてシアトル入りしたときに空港に迎えにきていただいてから、家族・親戚の空港への送迎、食料品の買い出し、ベビーシッティング、お見舞い、差し入れと八面六臂の活躍だった。カヨさんなしにはシアトル滞在はもっと辛いものになったろう。主婦業の上に、空手教室で教え、老人ホームでもボランティアをするエネルギーに脱帽。 元血液疾患患者のボランティア、ノリコさん。妻が亡くなった夜、深夜まで待機していてくれた。息子を映画に連れていってもらったりもした。やっかいな航空券の手配や変更作業を一手に引き受けてくれた。ご主人がインターネットカフェの経営をしていただけあって、インターネットと電子メールの達人。 ハッチのボランティア斡旋係のアン。約300人のボランティアを組織し、困ったときにはすぐ適任者を紹介してくれた。医療チームの会合に定期的に出席しているので、患者の病状やおかれている環境を熟知している。いつ道で会ってもこっちのことをよく把握しているので、舌をまいた。 コーディネート担当看護婦のアン。小学5年生の娘のガブリエルはうちの息子と同じ学校に通っていた。週1回の5年生と1年生の混合クラスの時間には、うちの息子の担当となり世話をしてくれた。アンの家族が参加するカープール(複数家族が担当日を調整しあって、朝、車で子供たちを学校に送っていくこと)に、うちの息子もよく同乗させてもらった。精神分析医であるアンの夫が運転することもあった。 |
医療部長のウエイド先生は当日の夕方になってからパーティの存在を知ったが、すぐ駆けつけてくれた。外来部長のウィザースプーン先生はゆっくり過ごしてくれた。臨床検査部長のハンセン先生は、「先約がありどうしても出席できない」という電子メールを送ってきてくれた。 息子が通った私立小学校の校長先生ブリジット。むすめのエヴァといっしょに来てくれた。スイス人のブリジット・バーチさんは20年ほど前に自分の名前をつけたバーチ・スクールを創立した。民家を2軒買い取って校舎にした、こじんまりした愛らしい学校だ。スターバック・コーヒーの創業者の子弟も通っている。ブリジットは乳ガンの経験者なので、妻のことはとても気にかけてくれた。おりに触れて妻にカードを送り、息子のクラスにもしばしば訪れて息子を見守ってくれた。学校あげて応援してもらったような気がする。学校は、妻の人生と闘病を記念して、校庭に1本の木を植樹をしてくれた。ときどきその木の成長ぶりを写真で知らせてくれるという。 ブリジットが乳ガンと闘病したとき娘のエヴァを担任していたのが、うちの息子を担任してくれたロビン先生だ。ロビンのおかげで息子が学校が大好きになり、友人を多く作れたことが、どれだけありがたかったことか。息子のためにすばらしいお別れ会をクラスでやってくれた。 ◇チームの全貌◇ 息子の親友ダニエル、ニコラス、サムが家族といっしょに来てくれた。ダニエルのお母さんパティは、放課後うちの息子をよく自分の家に連れていって遊ばせてから、家や病院まで送ってくれて助かった。ニコラスの母ジロンも同様。ニコラスの父アンディは、趣味の鉄道模型をうちの息子に特別に披露してくれた。サムの家族からの寿司とワインの差し入れはありがたかった。サムのお母さんの実家はカリフォルニアはナパバレーのワイン醸造所。さすがにうまいワインだった。 | |
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ブリジットは「とても素晴らしいパーティだった」と何度も繰り返した。ウィザースプーン先生は後日、「病院スタッフのためにとても意義深い時間だった」と電子メールを送ってきた。この日集まった人々(参加できなかった人も多かったが)が「チームT子」だったのだ。出席者ははじめてその全貌の輪郭をつかんだ。 医師やナースたちが学校関係者やボランティアと席を同じくすることは珍しいだろう。我々がボランティアに支えられていたことや、息子が学校生活を楽しんでいたことを実感できたろう。学校関係者やボランティアは医療チームに会うことで、T子がどんな激しい闘病をしてきたかを感じただろう。自分も含めたみんなのために、またとない一種の教育機会だった。 これでシアトルを去れると思った。 ◇ニューヨーク「お別れパーティ」◇ シアトルを出てニューヨーク経由で日本に向かった。マンハッタンに約4年住んだ。妻はマンハッタンのありとあらゆるストリートを精力的に歩いた。ダウンタウンからアッパーまで、これだけ制覇した駐在員家族も珍しいだろう。ニューヨークは我々を魅了した街であり、そこで妻が発病し闘病した街でもある。オフィスの最後の片づけをし、週末に友人家族に会った。 息子が通っていたマンハッタンの私立小学校の、親しくしていた6家族が集まってくれた。クラスの担任先生は最後までうちの息子がクラスに所属し続けているように扱ってくれた。先生が点呼すると生徒たちはいつも「D(うちの息子)が休んでいるけど、他はみんないる」と答えたという。一月に一回ぐらい、子供たちの寄せ書きが届いた。 子供たちは会った瞬間からまったくブランクを感じさせずフル回転で遊び始めた。うちの息子のことを取り合いになって少しいざこざも起こる。 ロフト風の自宅を会場に解放してくれたのはジョージアのおうち。お父さんは救急医で、お母さんは芸術家からソーシャルワーカーに転職した。その妹は有名な前衛芸術家だ。 |
ヘンリーは息子の大の親友。妻が亡くなる1カ月前に、シアトルまでお母さんのジェニファーと遊びにきてくれた。ジェニファーは妻がもっとも信頼し慕っていた人物。パリ・ルーブル美術館の別館ピラミッドをI・M・ペイの下で設計した優秀な建築家だ。ヘンリーのお父さんニコラスは、世界を飛び歩くウォール街の国際金融マン。ちょっと取っつきにくいところがある。だが今回、妻の思い出話に一番熱心だったのは彼で、ざっくばらんとしたパーティに「もっとしめやかに故人を偲ぶべきだ」と憤慨するなど、意外な側面を発見した。そういえば、彼は最愛の妹を若くして免疫疾患で失い、長女に妹の名前をつけている。平気でパーティに参加していたジェニファーは翌日、3人目の子供を出産した。 惚れ惚れするほど可愛いエロイーズは、相変わらずお転婆ですばしっこい。オックスフォード大学卒業の才媛ながら、ひょんなことから友人と靴のデザイナーをはじめ、今ではソーホーにブティックをもつようになったお母さんのミランダは、なぜか西友の無印良品をこよやなく愛する。お父さんのジョンは売れないシナリオライター。映画が好きだった私の妻と、日本のマイナー映画についてじっくり語ったときの話をしてくれた。 ブライアンはうちの息子を他の友人に取られたと泣き出してしまった。別荘の池でみんないっしょに泳いだことを思い出す。 オースティンのお母さんリサは、妻の死を説明したときのオースティンの反応を詳しく教えてくれた。泣き叫んで落ち着くのに時間がかかったという。よく説明して自分の家族は大丈夫だと納得して、落ち着いたという。クラスがみんなで一人の人間の死を受けとめ、デス・エデュケーションをしている。リサの職場の同僚のお姉さんのエリスは白血病。妻と同じスローン・ケッタリングにかかり、ハッチで骨髄移植をした。シアトルで我々と同じアパートに住んで、よく顔を合わせた。証券営業マンの夫スコットは、妻のことを家族のように気にかけてくれた。人を励ますことにかけて天才的才能があった。エリスの経過は順調だという。 | |
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◇ガン死に遺された家族仲間◇ ゾーイのお母さんリンとは話すことが尽きなかった。リンの夫リーは昨年夏に肺ガンで亡くなった。おととしの夏、ロングアイランドの別荘を訪ね、みんなでビールを飲みビーチで遊んだことが嘘のようだ。今は彼も妻もいない。その後、秋になってリーはかなり進行した肺ガンを発見する。妻は翌年2月に白血病を知る。2人はまたスローン・ケッタリング仲間でもあった。 リンはニューヨーク・タイムズに寄稿する著名ライター。リーはウォール・ストリート・ジャーナル紙でアルバイトから外報部長まで登った人だ。ベトナム従軍記者を経験。国際政治が主な守備範囲だったが、お父さんが有名な建築家だったせいか文化ネタにも強い、幅の広いジャーナリストだった。 わが家がシアトルに向かう前日に、ニューヨークで同じ様なメンバーで壮行パーティーを開いたときにも、リンとゾーイは参加してくれた。リーが亡くなったのは、その翌日である。そんな差し迫ったときに出席してくれたことに恐縮したが、リンは「良いことだった」という。それまでゾーイは父の闘病の間、感情表現がうまくできなくなっていたという。うちの息子の送別会のあと、ゾーイは胸につかえていたものをすべて吐き出すように、思いっきり泣いて泣いた。そして、翌日の父の死を迎え、また悲しみを表出することができたという。ゾーイはうちの息子との別れを契機に、父との永遠の別れのための準備をすることができたのである。 |
遺されたものが死をどう受容するかリンと話し合った。「実感がない。このパーティのあと、妻の看病のため病院に戻らなくちゃ、と思う」と僕が漏らすと、リンも2カ月ほど「毎日、夜2時間ごとに、痛み止めをあげなくちゃ、と目がさめた」という。「最初は、辛かった闘病のこと、苦しみの瞬間、死の瞬間が念頭から去らない。でも時間がたつと、楽しかった日々、良い思い出が徐々に頭を占めるようになってきた」とリン。リーは自宅で終末医療を受け、在宅看護サービスを受けながら、リンは介護に身を粉にして尽くした。リーの場合、疼痛が大きな課題だったため、家族には厳しい末期であったことだろう。リーは56歳、妻は36歳。2人とも若すぎる。リンと、「寡婦・寡夫クラブ」として、末永く付き合っていくことを約束した。 ニューヨークを去る飛行機に乗って思った。ニューヨークに住まなければ白血病にかからなかったのではないか。禁じられた問いである。ニューヨークに住んだことが発病の原因ではない。でも、ニューヨークに住まなければ発ガンメカニズムのドミノ倒しが違ったように働きガンが発現しなかったかも知れない。しかし、歴史にイフはない。妻はニューヨークを愛し、ニューヨークに生き、ニューヨークで発病し、ニューヨークで闘病を開始した。それだけである。妻のためにも、いつかニューヨークを再訪したいと思った。 | |
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21 「心のオアシスだった『らくだ』」
◇「心のオアシスだった『らくだ』」◇ |
患者にとって患者仲間というのはかけがえがないものだ。外来病棟で合う常連さんや同じアパートに住む患者家族とは、とても親密になった人も少なくない。励まし合い、愚痴を言い合い、情報を交換し合う。しかしパソコンではもっと濃密な空間が成立していた。妻は猛烈な興味を示した。 結局、妻はコンピュータを操作できないので、私が参加者として発言し、妻は読むだけの間接参加となった。もちろん私は妻の意見を発言にできるだけ織り込んだ。そういう意味では共同参加だ。妻を参加させて良かった。妻がラクダのおかげで、闘病にとても張り合いを持つことができたからだ。 海外からの「骨髄移植ライブ」ということもあって、ラクダ参加者からも多くの反応と応援をいただいた。「無菌室」に対する考えなど、日米の患者の扱いがかなり違うようで、興味も引いたようだ。 妻が読んでいるので、僕が愚痴をこぼしたり、悲観的になったりすることはできなかった。しかし、仲間に説明したり質問することで、そのときの治療方針や疑問点について自分の頭が整理できただけではない。妻もそれを読むことで、自分の治療に対する理解を再確認できるという効果もあった。 私は一度に多くの友人を得たような気がした。病院でもたくさんの友人はできた。しかし、パソコンネット上の付き合いの距離の身近さはまた別物だ。一度も会ったことがないもの同士だが、この一体感は不思議だった。他の人の病状や疑問に、一喜一憂する。喜びや怒りに同感する。孤独という言葉から、ほど遠い闘病ができた。 患者本人の妻にとっては微妙な気持ちもあったと思う。命をかけての闘病であり、つらい毎日だ。それを、世間にさらすのは抵抗もあっただろう。しかし、仲間からの激励や関心の強さに、そんなことは吹っ飛んだ。また、病人として他の患者にとても強い関心をもった。「ねえ、○○さんはどうしているの? 何か出ていた? 早く読ませて」。妻はよく尋ねた。 | |
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白血病と闘うと、一種の公人感覚を持つようになる。患者の気持ちは患者にしか分からず、介護者の悩みは介護者にしか知り得ない。患者一人ひとり事情が違う。しかし、「多くの人のおかげで生かされている」ということも強く意識するようになる。骨髄や血液のボランティアの提供者なしには生きられない。日々、多くの医療チームの世話にもなる。自分の体験をさらし、共有し、知識を伝達するのも一種の義務だと感じてくる。 それに、自分たちの経験が、他の患者や医療関係者に多少とも役に立つのではないかというほのかな期待もあった。この程度のことをボランティア精神というのはおこがましい。だが、治療中だからといって善意を受け取るばかりでなく、お返しも少しずつしたいとの気持ちがあったのは事実である。 気が抜けない毎日。心も体もくたくたに疲れているのに、なぜか深夜パソコンに向かわずにはいられない。多少の睡眠時間は犠牲にしたが、その日の分の日記を送信し終わるとホッとし、翌日への意欲も湧いた。私にも妻にも確実に張り合いになり、ラクダは「楽しい闘病」に不可欠な要素となった。 移植後63日目からは、「骨髄移植ライブ日記」から「闘病記の公開連載」に切り替えた。ラクダの場に断続的に連載したものをまとめたのが、この「超・闘病法」だ。ラクダへの参加なくしてこの闘病記もなかった。妻が亡くなった後もできるだけ執筆を続けた。命亡くして何の闘病法であろう。空しいのは分かっている。しかし、結果はともあれ、妻が一生懸命闘ったことに変わりない。それを無にしないためにも、執筆を止めるわけにはいかなかった。執筆する行為が私にとっては悲しみからの治癒であり、かつ妻への供養でもあった。 日本に戻った直後、死亡日から2週間ほどしかたっていないころから、まだ段ボールの荷物が山積みになり、テーブルも届いていない引っ越したばかりの家で、床にあぐらをかいて続編を書きつづってはパソ通で送った。闘病が、病人が死んだあとも続くのは言うまでもない。 |
◇忘れがたき対話◇ ラクダの想い出はいろいろある。 1月下旬。「再発」を告げられたお医者さんとのコンファランス。妻は同席していた子供を外に出すと、気を取り直して質問を始めた。僕は、頭を抱え込んだまましばらく一言も発せなかった。聞いたとたん、もう治療法は限られたこと、この瞬間に治癒の可能性はほぼなくなったことを知ったからだ。 妻も状況の厳しさは百も承知している。コンファランスを終えて家に帰ってからは、ソファに横になって身を縮め、しゃべらずじっとしている日が2、3日続いた。 妻が発する言葉と言えば。「もう治ったと思ったのに。これでみんないっしょに日本に帰れると思ったのに」「治ると思ったから頑張って来たのに」−−。そして、「これからどうするの。お医者さんの言ったことをもう一度説明して」。説明すればするほど、見込みが悪いことがはっきりするだけだ。「可能性はこれしかない。そこに賭けるしかないんだ。頑張ろう」。僕の言葉も空虚に響くだけ。妻は医師に最善・最強の治療の継続を頼んだし、治療を続ける意志は強い。しかし、今度はさすがに言うことが悲観的になった。 そんなとき、妻が変わった。ラクダに再発したことを書いた。それに対してたくさんの励ましがあったが、中でもKさんからの返事に妻は強く反応した。Kさんは骨髄移植を受けたあとに白血球細胞が陽性だったことを経験している。これまでの治療経過を詳しく書いてくれた。実は、Kさんの慢性骨髄性白血病と妻の急性白血病では事情が違う。でも、妻はKさんの手紙に希望と慰めを見いだした。「私も頑張ってみる」と妻は言った。妻はこの部分を印刷して入院のとき持参した。病院で、ときどき読み返していた。こんなマジックは患者にしかできない芸当である。 ラクダという場を作った発起人の一人が、Wさんである。妻と同じ急性骨髄性白血病と闘い、亡くなった。Wさんが亡くなったのは、僕たちがラクダに参加する前だったから、直接のメールのやり取りはない。しかし、僕と妻はラクダの過去の発言すべてを読破したから、Wさんのことを知ることができた。妻はWさんのことにも興味をもった。今ごろ、天国でゆっくり話し込んでいることだろう。 | |
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ラクダの過去の発言集は、あるネットワーク上に保管されており取り出すことができる。ラクダ参加メンバーのNさんが、米国からではこの場所に接続するのは難しいだろうと、特別に電子メールで発言集を送ってくれた。移植前のことである。 僕らが参加する前の800の発言を、妻はわずか3日ほどで読み上げた。妻は抗ガン剤の副作用で片目の一部に影ができ、新聞や雑誌を見るのに苦労していたが、ラクダとなれば集中して何時間でも読んだ。興味や好奇心、そして安心感が痛みと苦痛を減らすのは歴然とした事実だと思う。 病人を励ますのは難しい。僕はかなり苦手である。「大丈夫」路線はよそよそしくなるし、「大変ですね」スタイルは相手をがっかりさせるような気がする。しかし、ラクダの面々は大した文章家ぞろいであり、かつ、患者や家族にやる気を出させるセリフを自然に会得している。思いやりを知っている。どんなに苦しい状況の患者や家族にも、適切な言葉が心からスラスラ出てくるようなのには舌をまいた。現実社会の人々の不用意な発言にはイライラさせられたり、落ち込まされたりするのに・・・ 「骨髄移植ライブ日記」の中で、米国の無菌室のようすを書いていたら、Mさんから自分のホームページに「米国骨髄移植事情」として掲載したいとの申し出があった。ふたつ返事でお願いし、そのための原稿を書いた。どこかのホームページ上に自分の文章が載るというのは単純にうれしいものである。 さらに、Hさんが九州骨髄バンク連絡協議会の会報編集者に紹介して下さって、同会報にも「米国骨髄移植事情」を書いて掲載された。 ◇闘病の達人たち◇ ラクダにはすでに「超・闘病法」を会得・実践している人が多い。 Wさんは、急性骨髄性白血病と闘いながら、ラクダを作り、参加し、盛り上げた。それが今まさにみんなの憩いの場になっている。 Hさんも血液疾患患者。Wさんと、共同でラクダを立ち上げ、現在の中心人物のひとり。血液疾患、骨髄移植関係ではベストと言える立派なホームページを持ち、そこでも血液疾患の人々が交流できる「ボード」を開いている。(骨髄バンクボランティアの全国組織である、全国骨髄バンク推進連絡協議会のホームページ開設なども手伝っている。) |
上に触れたMさんのホームページも立派である。ここでも血液疾患患者のボードが開かれている。Mさんも白血病の病歴がある。Hさん、Mさんらはコンピュータの達人でもある。 自分の闘病で精一杯ではない。これだけのことを人のために成し遂げている。それを楽しみながら、闘病している。病気への知識や勉強ぶりがすごい。これは驚きであり、触発される。いずれかの「ボード」に質問をしてみるとよい。 ラクダの議長のSさんは、自分も家族も病気ではない唯一の定例参加者。新規参加したときのSさんの「いらっしゃいませ、、、」のやさしいコメントで、一瞬にしてこの場に包容される。 Iさんは子供が血液疾患である。全国骨髄バンク協議会の積極的なメンバーで、骨髄バンクの活動と問題点は、Iさんの発言を追っていると大体分かる。 Nさんは、ラクダの過去の発言を保管する責任者である。自分のホームページでは、地味ながら力のいる仕事をしていて、実直な性格がうかがえる。日英単語対照表など、英語論文を読むとき役立つものが多い。 Lさんは骨髄移植経験者。骨髄移植の世界ではちょっとした広告塔である。地元北陸を中心によく知られたボランティアで、闘病経験者として、しばしばテレビに出演したり講演を行い、多くの機関誌などに寄稿する文章家である。 OGさんは、娘の骨髄移植のライブ日誌を発信した。そのひょうひょうとした性格と、大阪弁の語り口が多くのファンを生んだ。 ・・・・挙げ続けるとキリがない。 参加したとき、骨髄移植ライブを執筆している日々、退院したとき、再発したとき、治癒を断念したとき、死去したとき。みんなからのコメントにどれだけ勇気づけられたことか。 「超・闘病法を実践する闘病の達人」と言ったとき、米国の風土でしかできないものではない。ラクダの多くのメンバーがその域に達していると思う。そういう意味で「超・闘病法」は決して非現実的なものではない。 | |
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