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17 「夫が妻を介護するとき:闘病の日常」

◇夫が妻を介護するとき◇
 「贅沢」と言われると、抵抗がある。でも、世間からはそうみえることもあるらしい。
 倒れた夫を、妻がかいがいしく介護するという筋立てはよく聞く。妻が倒れることも同じぐらいあるはずなのに、夫が介護するというのはあまり聞かない。夫が病気になった場合は妻が介護し、妻のときは実家や家族総出で介護して、稼ぎ頭の夫は働き続けるというパタンが多いのか。妻が不治のがんであると知っても、死の数日前まで勤務し続けた人も身近にいる。こうしたことも決して珍しいことではなかろう。愛するもののために有給休暇を取ることさえ、ままならない日本。
 ウチの場合は、海外暮らしで周りに人手がなかったこともあり、自然と(仕方なしに)私がほぼすべてをやることになった。もっとも、こんな大事業、人に任せるわけにはいかないという気もするが。闘病は長期にわたった。しかも移植は私の勤務地を離れてシアトルで受けた。それ以外の選択があるとは思えなかった。しかし、それを人はうらやましがったり、「これで気が済んだだろう」などという。奇妙なことだ。
 「苦労したね」とねぎらわれることもある。それも何だかピンとこない。病状が思うようにならず、やきもきすることはあった。しかし、介護自体が辛くてくよくよ悩んだことはなかった。家族3人、水入らずの闘病生活をただ一生懸命しただけだ。これも人生の一部だったし、大切で充実した時間でもあった。
 僕のシアトルでの典型的な1日はこんな風だった。
 朝7時起床。朝食と子供の弁当を作る。7時半ごろに子供を起こす。着替えと朝食。8時15分ごろ学校に車で送っていく(シアトルに行ってから運転免許をとった)。8時半学校に着。そのまま病院へ。ときには、たまっている家事を片づけに家に戻ったり、買い出しにスーパーに先にいくこともあった。

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病院につくと、まず妻のベッド周りの整理せいとん。水や氷を補充したりする。妻の話を聞きながら、その日の病状やテーマを把握。ナースステーション周りをうろうろして、看護婦さんから情報収集。そうこうしているうちに、医師団の巡回がある。妻と医師団との受け答えを聞き、医師に質問したり要望する。さらに医師をあとで廊下でつかまえたりして補充する。
 昼食はほとんど病院でとった。病院のカフェまで行って、食事を持ち帰ることもあったが、再発後は部屋に病院の調理場から出前をとることが多くなった。朝、子供に食べさせるだけで精一杯だったときは、自分の朝食は病室でとった。朝、昼、晩。3食ともこの出前ですませたこともしばしばだ。限られたメニューだったが、このまま何カ月でも平気で続けられると思った。ウチが病院の食堂の一番のお得意さんだったのは間違いない。
 2時半ごろ病院を出て、子供を迎えにいく。クラスの子供たちの元気な姿を見、担任の先生や迎えの父兄と少し言葉を交わす。気が晴れる時間だった。そして子供をつれて病院に。途中で買い物をするときもあった。それからは子供は病室で遊ぶ。本を読んだり、ビデオを観たり。あきれば散歩に出る。6時頃には病室で夕食。そして病室で宿題。夜番の看護婦さんが8時に来ると、昼の状況を説明し、夜の看護の重点と投薬計画などを確認して帰宅。
 ここからが追い込みだ。子供を風呂に入れ、9時すぎに就寝。その後、掃除、洗濯、洗い物。あちこち電話してシャワーを浴びれば12時近い。それから日記をつけ、ラクダをのぞき、インターネットで調べものでもすれば、あっと言う間に2時ごろになる。9時頃に子供といっしょに寝てしまい、深夜12時から3時ごろまで起きる、「2分割睡眠」のパタンも多かった。これはなかなか能率があがった。

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 以上は妻が入院時のパタン。外来のときは事情が違う。
 朝食と子供の弁当は体調が許せばできるだけ妻が作った。妻を家に一人残すのは不安だから、子供を学校に送って急いで家に引き返す。そして、ほとんど毎日、病院に出かける。送り迎えはもちろん、治療の間もほとんどつきっきり。血液検査程度で短いときは良い。輸血、点滴、診察、会議と8時間も10時間も病院に滞在することもあった。そんなときには、途中で子供を迎えにいき、外来に連れてくる。単に点滴が入るのを待っているだけのときは、たまには子供と外に出かける。不安や質問があって医師や看護婦さんをつかまえたいときは、ぴったり病院で付き添う。外来での治療が夜まで長引いたときは困った。子供の就寝時間が近づくと、子供は寝かせなければならないし、妻を一人にはできないで、やっかいだった。
 妻が好調なときはいい。家事を妻がやるし、家族団らんが楽しめる。しかし、調子が思わしくないときは、通院補助、家事、介護と重なって忙しい。夜には点滴をセットし、夜中に起き出して交換しなければならないこともある。何より、苦しそうな姿をみるのは辛い。夜中に調子が悪くなるときもある。
 介護というのは10種競技のようなものだとつくづく思う。瞬発力と持久力の両方を試される。あるいはチェスとボクシングを同時にやるというべきか。言い替えると、頭脳、精神、体力の3拍子のバランスが大切だ。疲れていても頭の隅は醒めていないと困る。気に掛かることがあっても病人には変わらぬ態度で接したい(これはかなり難しい)。身の周りの世話と家事には、考えなくても体がテキパキ動くようでなければならない。
 ニューヨークでは、病院、自宅、学校、職場がすべてマンハッタン内にあり、いずれもタクシーで15分以内(渋滞があると30分)の距離にあることはありがたかった。一日に「病院3回、自宅3回、学校2回、職場2回」といった風に動き回ったこともざらだった。

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 −−どんなときでも食事をしっかり取る、疲労困憊したときはすきを見つけて15分でも横になる。これが破綻しないこつである。そして人との会話を楽しみ、寝る前にはラクダをして(パソコン通信での対話)、短い睡眠時間でもすっきりと眠る。張り合いとリズムを作ることが継続の秘訣だろう。
◇こんな中でも成長した子供◇
 妻にとっても僕にとっても子供の存在が闘病の支えであり慰めだった。息子は闘病の犠牲になることなく、闘病の中で成長してくれたと思う。
 ニューヨークの学校の友人から引き裂いて、シアトルの病院付属学校に移らせた。せっかく慣れたばかりのときに、授業時間が短すぎるという理由で私立小学校に転校させた。友達と離れ、新しい環境になじむのは大きな負担になったことだろう。しかし7歳というのは好奇心が旺盛な時期だ。新しい学校が大好きになり友達をいっぱいつくった。1年生だったが学習進度が速いので2年生の教材を与えられた。とくに国語(すなわち英語)は進んでおり、リーダーズ・ダイジェストやニューズウィークでも平気で読んだ。アート、サイエンス、コンピュータクラス、スペイン語、社会見学・・・。日々、わくわく、活動的だった。子供が熱心に話す学校での出来事を聞くことが、われわれの無上の喜びだった。
 土曜日には日本人学校に通いはじめた。ひらがなも読めなかったのに、半年で、ほぼ日本の国語の教科書に追いついた。日本流の整列や挨拶も、意外と嫌がらずに面白がって覚えた。
 一人っ子で過保護なところもあったが、こうした環境で多少の自立心もできたようだ。彼は年齢なりに状況を理解し、役割を十二分に果たした。子供に修羅場をありのままに見せてきたが、過酷ということは決してなかったと思っている。できるだけ家族で一緒に過ごし、悲しみも喜びもわかちあってきた。

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18 「妻にとっての闘病=日常生活の維持」

◇1日でも長く普通の生活を◇
 「早く帰りたい。いつ退院できますか」。
 入院中、医師の巡回のとき、妻は決まったようにそう尋ねた。24時間面会自由の中で、子供や僕とたっぷり時間は過ごせる。介護者からすると完全看護の病院の方が安心のような気もする。しかし、病人にとって病院と自宅は雲泥の差のようだった。家に帰ると食欲も活動量も目に見えて増えた(これは如実だった。逆に入院直前・直後は反対のことがおこる)。
 当たり前のことだが、妻はまだ幼い子供のことを気にかけていた。結果的に子供を遺して逝かなければならなかったことは、断腸の思いだったろう。子供への執着と責任感が、生への意欲の大きな根拠だった。また、子供との触れ合いができるだけ奨励される闘病環境だったのが、どれだけわれわれの助けになったかことか。子供がそばにいなければ、これほどの頑張りはできなかったかも知れない。苦痛を軽減する効果もあったと思う。
 米国でここ数年、進行している「外来化」(第2章の5参照。できるだけ病人を入院させず、可能なことは外来患者として治療する)は、体験者として大きな意味を感じる。血液疾患になると、日本では診断されてから2、3回目の化学療法まで、あるいは骨髄移植まで、ずっと入院したままで進めることも少なくない。半年連続入院といった話も珍しくない。移植後はだいたい100日は入院したままである。
 米国では化学療法をしても、翌日には退院することが多い。化学療法を通院でやる場合もある。「熱が出たら来なさい」と帰される。骨髄移植は普通病棟で家族から隔離されずに行われるし、移植の後も25日程度で退院する。2カ月、3カ月と連続入院することは非常に希である。それでまったく不都合は出ていない。
 妻の場合、移植の前処置中にも帰宅許可をとって連日のように外出、外食をした。それをパソコン通信で「らくだのオアシス」に書いたら、「信じられない」という反応がたくさん返ってきた。ある人は「同じ骨髄移植という名前でも、全く違う治療ではないかと考えてしまう」と書いた。治療法は同じである。違うのは患者の扱い方で、それによって患者の反応が変わってくるのであった。

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◇至福の、ありきたりの日々◇
 外来扱いのときは、妻はありきたりのことを続けた。食事の用意(私は妻の病気がわかるまでは、例にもれないワーカホリック=仕事中毒の日本人で、ほとんど家で食事をする機会がなかった。妻がいつの間にか、腕を上げているので驚いた。妻の真剣度も違った)、つくろいもの(入院する前には決まって子供の服をひととおり点検していた)、こどもといっしょにふざけてあばれる、洗濯(大好き。いつも丁寧にたたんで分類して片づける)、スーパーへの買い出し(米国のスーパーは巨大で楽しい。近くに米国有数の日本食材スーパーもあり、中華街やベトナム人街もあったので、たいていのものは手に入った)、ショッピングセンターや書店での買い物・・・。
 もちろん健常人ではない。吐き気、頭痛、だるさなどの症状をなだめすかししながらだ。ほとんど1日中調子がよい日もあれば、1、2時間だけの晴れ間のときもある。外出のときは、薬や吐き袋を常に携帯した。
◇治癒断念。死への準備◇
 骨髄移植、退院と順調に進んだが、再発してその後の化学療法も効果がみられなかったことから97年2月11日に治癒を断念した。後に第2次寛解入りしていたことが判明したから、医師のこの判断は結果的には間違っていた。しかし、この決定が既定事実になってからは、どう生存の質(クオリティ・オブ・ライフ=QOL)を高めるかに議論の観点は移った。病院と家族が相談してオーダーメイドで仕組みを作った。1〜4週間の余命との宣告。医師団は日本への帰国、このまま入院、自宅から通院−−の3つからひとつを選ぶように言った。当初は入院したまま、できるだけ長時間の外出許可をもらうことにした。夜中の間に点滴や投薬で充電し、朝、医師の巡回が終わってから、自宅に戻るというやり方で、安心感はあった。1週間ほどして妻は希望して退院した。2、3日に一度、派遣看護婦が来てくれた。適宜、外来に通院もした。
 2月下旬、急きょ救急車で入院し危篤に陥ったが、その後、奇跡的に回復。そんな状態でも妻は帰宅を強く希望し、自宅への外出許可を3日連続で得た。その元気さに医師団は感銘を受け、もう一度、骨髄せんしをすることにした。その結果、第2寛解に入っていることが分かった。ところが、肺炎が悪化し致命的になった。

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 治癒断念からは死の準備期間であった。でいた。病人はどんなに絶望的な状況になっても、まだ希望を捨てないものだ。私も一縷の望みをもっていた。私が「告知派」である根拠のひとつがここにある。
 印象深い1日がある。2月下旬のある日。子供を学校に送ってから、妻と私は喫茶店に出かけた。先端の若者が集まるブロードウエイと呼ばれる地区が病院のすぐ近くにある。米国で一世を風靡したグランジと呼ばれるロック文化もここが発祥の地だ。鼻やまぶたにピアスをした若者や、おしゃれな人々がいっぱい歩いている。この喫茶店はブロードウエイにあり、ロフト風の空間に、種類がちぐはぐな机と椅子が置いてある。コーヒーの表面のミルクの上に樹の絵を描いて出すカプチーノが名物。そのやり方が名人芸的で面白い。エスプレッソの上に沸かせたミルクを、手首をゆすりながらすっと注ぐ。するといったん沈んだミルクが浮かぶときに樹の形になる。店員によってくせが違うし、同じ店員が作っても同じ柄にはならない。偶然を楽しむのだ。客は本を読んだり、書き物をしたり、友達としゃべったり、思い思いに長時間粘っている。
 妻はここをとても気にいった。結婚前のデートのときのように長時間話し合った。出会ってからのいろんな思い出も。それから妻はノートとペンを取り出して、子供への遺言を書き始め、僕は本を読んだ。とてもゆったりとした時間だった。
 こうして時間をみつけては手紙を書き足した。8歳、10歳、13歳、15歳と続け、17歳の子供あての途中で筆は絶えていた。20歳、結婚したとき、子供ができたとき・・・。ずっと続けるつもりだったのだろう。本人は完成できなかったことを気にしていた。でも、これで上出来だろう。亡くなる12時間前、ベッドの上でこの手紙を封印して僕に託した。

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◇闘病中の想い出◇
 闘病中にいい想い出もたくさんつくった。シアトルでは、たいていの名所は訪ねた。シアトルの象徴であるタワー、スペース・ニードル。ウォーターフロント地区のにぎわいは楽しく、米国でもっとも成功した事例のひとつだろう。水族館は小さいが、ごく平凡な魚類について丁寧な解説があって、ひと味違う。タコやいそぎんちゃくの展示が素晴らしい。たぶん米国随一の小売食材市場のパイク・プレース・マーケット。魚介類、野菜、果物、スパイスなどがあふれる。築地の場外や大阪の黒門市場を歩くような楽しみがある。
 シアトルからフェリーに乗って30分ほどで行ける対岸の島には米国先住民(ネイティブ・アメリカン)の村、ティリカム・ビレッジがある。アジア太平洋経済会議(APEC)の第2回会議が行われた場所だ。ここで出される魚介類のスープやシャケはなかなかいけたし、先住民のダンスも一興だった。帰路、フェリーからのシアトルの夜景はまさに絶景!。3時間ほどのドライブで、古く英国人が入植した街ポート・タウンゼントに行ったこともある。19世紀の英国風(ビクトリア様式)の建物が多く残り、タイムスリップしたような気持ちにさせられる。アルプスのようなオリンピック山脈が間近に見えた。車で同じく3時間ほどのカナダの大都市バンクーバーには行きそこねた。
 シアトルには富士山がある。南方約100キロのところにあるレニア山(標高約4500メートル)である。近くの都市タコマ市の名をとって、日本人には「タコマ富士」と呼ばれる。富士山に似た美しい独立峰で、日々あるいは時間によって表情を変える。シアトルにいると「さて今日のレニアは」と、そっちの方角をときどき見るのが習慣になる。このレニア山には5合目まで登った。高山植物が咲き乱れ、氷河がついそこに見えた。そこは「パラダイス」と呼ばれていた。

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 パイクプレースの市場街の中にあるイタリアンレストランのパスタは最高に気に入った。パイクプレースからウォーターフロントに降りる途中の、小さなメキシコ料理店は、92年に家族でメキシコ旅行したときに体験した味そのままだった。日本から親戚がきたときはウォーターフロントの老舗シーフードレストランに行った。大勢でわいわい食事するには理想的な店だ。ショッピングセンターで買い物をいっぱいしたし、郊外のアウトレットモールもふたつ制覇した。
 米国人は季節の行事をとても大切にする。わが家では前々から、できるだけそうしたことに参加するようにしてきた。
 ハロウィーンには病院でも仮装行列大会が開かれた。子供たちが奇抜なかっこうをして、病院中を練り歩き、「トリック・オア・トリート」(お菓子をくれなきゃ、イタズラするよ)と言いながら、バケツいっぱいにお菓子を集める。今回が米国滞在中、5回目のハロウィーンだったが、子供が集めたお菓子の量は明らかに新記録だった。サンクスギビング(感謝祭)は米国人のお正月のようなもの。家族や一番親しい人々が家に集まって、お腹一杯に食べて、ぐうたらに過ごす。今年はボランティアのおうちでいただいた。
 クリスマス、いつも妻は飾り付けに腕を振るう。今回はもちろん何ももってきていない。買い出ししている余裕もない。ボランティアのボブに妻がチラっと話したら、なんと彼が一本ツリーを調達してきてくれた。妻が即席で飾りを追加する。にわかにわがアパートもクリスマスらしくなった。大晦日の夜、米国ではみんなが集まって新年に向けてカウントダウンする。カンカン、ブーブーと音を出す小道具をもって、騒音を出し、「10、9、8、7・・・」と数えて、年が変わった瞬間に大歓声を発して、辺りにいるひとと抱き合う。僕らのアパートの入り口にある会議室でも、患者家族が数組集まってカウントダウンパーティをやった。このころの写真では、妻はとても元気にみえる。

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 ニューヨークでは毎年、夏に有名な大花火大会が開催される。年によってマンハッタンの西側のハドソン川で行われるときもあれば、東側のイーストリバーが会場になるときもある。96年はイーストだった。そう、病院はイーストリバーから1ブロックのところにある。わが家3人は時間が近づくと、病室を抜け出して、屋上に向かった。屋上につながる階段までくると、病院スタッフが数人集まっていた。考えることはみな同じだ。でも、屋上に出るドアの鍵があけられず、みんな引き返していった。僕らはあきらめなかった。他の階を端から確かめた。昼間、外来患者の治療用に使われている部屋は夜は空室でまずますの見通し。でも、少し角度が悪い。小児病棟の階を探っていると、廊下を移動しているあやしい一団をみつけた。ついていくと、角部屋の最高に見晴らしがいい部屋に20人ぐらいがあつまっている。そこに入れてもらった。小児がんの子供たちが7、8人。みんな点滴を下げるスタンドから5種類ぐらいの袋が下がっている。家族たちがいて、そして、看護婦さんが2、3人付き添っている。
 照明を落とした部屋に点滴ポンプの緑色のライトだけが光る。ときどき誰かの点滴ポンプがアラームを鳴らす。看護婦さんが調整する。
 花火が始まった。たしかに最高の場所だ。あのとき花火を見つめていた、抗ガン剤で頭髪を失った小さな子供たちは今どうしているのか。子供たちの後ろで花火を見ていた親たちは、何を考えていたのか。妻と子供は抱き合って歓声を上げ続けていた。僕は花火とそれを半々で眺めていた。
 病気になったからあわてて楽しもうとしたわけでもない。想い出があるから気がすむわけでもない。ただ、できるだけそれまで通りのことをした。そして、その生活は妻にも僕にも子供にも強く記憶に刻みこまれた。

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19 「お葬式はジミ葬で」

◇「お葬式は要らない」。妻は言う◇
 97年1月に再発し、1月末から抗ガン剤を再度試した(再導入療法で第2次寛解入りを試みた)。2月10日、抗ガン剤が効かなかったと医師団は判断し、「余命は1〜4週間」という「死の宣告」を受けた。白血病の診断、最初の骨髄移植の入院時(このときは中止になった)、2回目の骨髄移植の入院時、再発宣告時・・・。何度も死の恐怖に直面したが、今度はいよいよ絶望との宣告。
 その度に程度の差こそあれ、『死ぬ瞬間』を書いたキューブラー・ロスがいう死の受容の5段階に似た経過を通る。「否認と隔離」「怒り」「取り引き」「抑鬱」「受容」。今回は、3日ほどはほとんど口もきかずゴロゴロしていたが、その後、意欲を取り戻した。そして、手紙書きと遺言を始めた。
 お葬式についても口頭で遺言した。「お葬式はいらないわ。告別式もね。家族だけで送って」と妻は言った。「偲ぶ会というのもあまり好きじゃない」とも。墓石については好みのデザインを指定した。家族で送るときに流す音楽と飾る花の種類も言い遺した。自分からこうしたことを話しはするが、こちらからそれ以上の質問をされるのはあまり好まなかった。
 伊丹十三監督の映画「お葬式」ではないが、世間の「お葬式」にはかねがね違和感を抱いてきた。あの気詰まりな雰囲気。普段あまり口をきいたこともない親戚が集まってきて、勤務先の人なども義理で押し掛けてくる。戒名のクラスはお金次第。宗派や出身地が異なる親戚が祭事のやり方を巡って争ったりもする。もちろん、葬儀は死んだ人のためだけでなく、残された人のためのものでもある。個人の趣味の問題でなく、社会的な儀式でもある。だが、今のお葬式はあまりに形骸化している。何より、喪主や家族は葬式の切り盛りで目が回るほどの忙しさで、愛する故人のことを偲ぶ暇もない。内容は、「松・竹・梅」のランク分けから予算に応じて選ぶだけで、故人や家族の人柄やセンスが入る余地もあまりない。

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 でも、異論は唱えにくい。第一ほかに選択肢はなさそうに思える。自分のお葬式も不本意ながら、ありきたりのものになるのだろうな、と漠然と諦めていた。しかし、妻ははっきりと「お葬式はやめて」という。こんなとき、女は強い。
 最初は、「最低限のお葬式はやらないわけにはいかない。質素にやるということか」と考えた。だが、データベースで日本の新聞記事を検索してみると、最近は「ジミ(地味)葬」なる、超・質素な葬式が流行っていることが分かった。有名人でも死亡したことを明らかにしなかったり、葬式や告別式を行わなかったりすることが多いらしい。「音楽葬(音楽を中心にした構成の葬儀。生演奏のコンサートに近いものもある)」など、フリースタイルや手作りのお葬式も増えているという。実際に故人のために「音楽葬」をされた「らくだのオアシス」の参加者の方からも電子メールをいただいた。「遺言ノート」(井上治代編著、KKベストセラーズ)という本を取り寄せると、具体的なチェックポイントとノウハウが書いてある。どうやら、妻の注文にかなり応えられそうな気がしてきた。
 何もしないわけにはいかない。遺体の処理はしなければならない。葬儀屋さんに、遺体を病院から引き取ってもらい、火葬にしてもらうことは不可欠だ(通常、米国では火葬場は公営でなく葬儀屋の施設)。火葬する前に家族でお別れは言いたい。
 病院の近くの葬儀屋を2軒訪問した。A社は半ば病院指定。B社も病院から近い。両方ともこちらの希望に「いかようにでもいたします」という。両方とも大会場と小会場をもつ。大会場の内装は教会の礼拝堂に似ている。しかし、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、その他いずれにも対応できるように、注意深く宗教的な象徴は除いてあり、宗教・宗派によって飾り付けをするようになっている。小会場は15メートル四方ぐらいのまったく癖がない空間だ。A社の建物はコンクリートの固まりのような外観で陰鬱。B社は老朽化一歩手前であるが純白の洋館風である。外見と小会場の雰囲気でB社を選んだ。

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 B社には日系人幹部がおり、純日本風葬儀もできる。日系人や海外在住日本人には、むしろ「できるだけ日本の伝統的仏式で」というニーズが高いらしい。この幹部には、こちらの「フリースタイルで無宗教で」という希望がどうもよく理解できないようなので、米国人の若手社員マイクを窓口にすることにした。A社ではハッチ患者家族に対し主要費用5割引きの特典がある。マイクは価格はA社に合わせると約束した。こんなときなので値段のことはあまり関心がなかったが、マイクは費用項目と見積もりをきっちり説明し、できるだけ経済的にあげることを強調した。米国人は葬儀に対してもきっちり価格交渉をするのだろう。葬儀分野でも価格破壊が進行しているようだ。A社の営業マンはビジネスライクでお悔やみの言葉も言わなかったが、マイクは若くてウブそうで、マナーもしっかりしているので好感がもてた。
 マイクと合計3回の簡単な打ち合わせをするうちに「お別れ会」のイメージが固まってきた。いったんは司会役を誰かに依頼しようかと思ったが、自分で司会・進行することにした。遺影は置くことにした。ネガを選んで自分で写真屋さんに持ち込んで引き延ばしてもらった。まだ大きさが不足したがマイクがカラーコピーで拡大できると教えてくれ、2ブロック先のコピーセンターで1枚99セントで拡大した。仕上がりは十分満足できるものだった。額は近くの専門店で求めた。
◇手作り葬儀を自力で◇
 お別れ会前夜に半徹夜して、式の流れを考えた。妻の選曲に、妻の趣味と自分の好みからつけ足して計6曲を選曲。まず、それを聴きながら順番を考え、そして、そこに必要な要素を織り込み、シナリオをワープロで打ち上げた。
 棺はピンからキリまであるが、センスが良いと思えるのがまったくない。一番簡素な合板製のものが、かえってくせがなく、うす紫色の外張りがしてあって悪くないと思った。骨壷は七宝焼き風のトルコブルーのものを選んだ。会場の装飾も簡素にしたが、妻が指定した紫のチューリップだけは、シアトル中のを買い占める意気込みでたくさんあしらった。僕と息子は平服で、妻が好きだった僕たちの服装という観点で選んだ。

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 お別れ会の内容はこんな風だった――。
 参加者は最小限の家族7人。僕は息子の隣で彼をケアし、会場入り口に立つマイクに音楽演奏の切り替えのキュー(合図)を出しながら進行した。息子は最初は退屈と興味津々(質問ぜめ)が半ばしていたが、みんなにつられたのか途中から泣き始めた。いっしょに泣きながら進行を続けた。棺には、妻が好きだった食べ物やマスコットや出身高校の土などを入れた。
◇式次第◇
 次のように式を進めた。
 音楽の選曲と構成の狙いはこうだ−−。基調はサティの音楽。シンプルな美しさ。環境音楽性と怜悧な諧謔。一転してワグナーの熱情と賞賛。次に、坂本の抑制された耽美とロマンチシズム。そして、ビートルズでポップに明るく、ユーモアも。クイーンの曲は妻の闘いへの賛歌であると同時に、ロックの打ち壊し精神で葬儀のしめっぽさをぬぐう。アヴェ・マリアは情念を伴った子守歌。最後にサティに戻して時間を永遠へと開く。一口で言って、「感情移入と異化が交錯する」構成であり、サティの背景の上に他の曲が乗っかっている構造とした。
javascriptとMIDIが使える環境の方はBGMが流れます。
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0、エリック・サティ、3つのジムノペディ。エンドレスで最初からかかっている。
*僕の司会者としての口上。妻の人生と闘病への賞賛(英雄伝説化)
1、ワグナー。楽劇「ワルキューレ」から「ワルキューレの騎行」(5分)
*話し続き
2、坂本龍一、「コーダ」(戦場のメリークリスマス・テーマソング・ピアノ演奏版)から「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」(4分45秒)。
 坂本さんは息子がニューヨークで通っていた学校の父兄でもあり、妻の出身高校の先輩でもある。妻はときどき会話をしていたし、とても尊敬していた。
3、サティに戻る
*寄せられた「言葉」披露。パソコン通信仲間、「らくだのオアシス」のみなさんからの電子メールのコメントも紹介した。お医者さんからのも。
 そして友人、職場からの電子メールコメントからも少し紹介。弔電ではどうしてもありきたりの定形文になって、読み上げるまでもないが、電子メールなので各人の個性と気持ちがよく表れていて、よかった。
*黙とう。(2分)

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4、ビートルズ。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」(3分30秒)。
*参加者ひとりずつからT子に贈る言葉。
5、クイーン(フレディ・マーキュリー)。「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」(3分)
6、ホセ・カレーラス独唱。アベ・マリア。アルバム「パッション」から。(2分36秒)
*自由なお別れ。ハッチで骨髄移植を受けたカレーラスは闘病仲間とも言える。運命の生死は別れたが、彼は骨髄移植の苦しみを知っている。妻を永遠に眠らせる子守歌を歌う適任者と考えた。
7、エリック・サティに戻る。
*お棺を閉める。閉会。
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◇満足と納得のジミ葬◇
 悲しみにあふれていたが、妻の人生と闘病への賞賛という調子が強かったと思う。お世辞かも知れないが、立ち会った葬儀屋のマイクと助手のマリーも、「とても良い葬式だった」と誉めてくれた。手作りのシンプルな式だったので、葬儀屋にとって儲からなかっただろうが、手間もずいぶん少なくてすんだはずだ。
 (うろ覚えだが、こんな数字をみたことがある。日本の葬儀平均費用が250万円。米国は半分。また、日本では結婚式は赤字、葬式は黒字と言われる。お祝いや香典で式の費用が賄えるかどうかという観点だ。米国で簡素にやったから、費用は少なくてすんだ。しかし、香典を辞退したので費用は自分での持ち出しになる。もっとも、香典は出すからいただけるのである。これまで他の人のときに出していたから(これから他の人に出すから)、もらえるのだ。つまり香典制度は、用途限定の「積み立て貯金」のようなもの。一時的に見れば、黒字のように見えても、よく考えると自分のおカネが返ってきているだけである。なお妻は、辞退しても香典をいただいたときは、骨髄バンクに寄付するように私に遺言した)。
 式の前には妻と僕の両親はどんな式になるのか想像がつかず、不安がっていたが、終わってみれば異口同音に「良かった」と言ってくれた。型破りなやり方への心理的抵抗も払拭されていた。夜、会食をしたときには、「自分の葬儀」談義に花が咲いた。みんなで自分のお葬式のときの選曲をしたりした。

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 式に使った花は後でシアトル美術館に寄贈した。妻が美術が好きだったと話したら、マイクが提案してくれた。シアトル美術館は大歓迎で受けてくれた。米国では葬儀の花と言っても嫌われない。そもそも日本の菊のように、葬儀用の花が決まっていない。シアトル美術館は、翌日の夜に行われた地元芸術家の特別展の初日パーティの会場の装飾にこの花を使い、招待状もくれた。
 息子と義姉で会場の花を見に出かけた。米国では展覧会の初日パーティは独特の雰囲気がある。着飾った人も変装・奇装した人もいる。お金持ちから変人芸術家まで混ざっていて、思い思いに勝手に楽しんでいる。花を眺めながら、妻も喜んでくれたのではないかと思った。
 お別れ会の翌日、葬儀屋の支店にある火葬場まで遺体を運んだ。車はブルーメタリックの年代物のクラシックカーのようなキャデラックのワゴン。マイクが運転し、助手席に同乗させてもらった。妻の遺体といっしょにいれるのはうれしかった。
 仮葬場がある墓地はゆったりとしており緑が一杯で美しかった。だが、火葬場はあまり立派ではない。米国では火葬比率が低いのと、公営の共同施設ではないからだ。それでも、マイクと助手のマリーは親切にどんな質問にも答えてくれたし、バーナーの点火も僕にやらせてくれた。点火するのはさすがに気が臆した。しかし、「他人に任せるより、自分の手で」と思った。小さなガラスの窓から中が見える。スイッチを押すと同時に一瞬にして炎に包まれ、あまりに強い火力なので驚いた。15分ほどじっと炎を見続けた。マイクとマリーはその間、僕を一人きりにしてくれた。
 帰路はマリーが運転して送ってくれた。米国では1人前の葬儀屋の係員になるには資格(フューネラル・ディレクター)がいる(日本でもようやく似たような制度がスタートした)。マイクはそれをすでに取得している。マリーはそのための2年間の専門学校を半分終えたところ。プログラムは遺体処理などの化学講座から葬儀運営、法務、会計など多岐に渡っている。近年、葬儀社の経営もどんどん近代化し、合併や買収が行われたり、株式公開が実施されるなど、専門経営者が運営に乗り出すことが増えたが、B社はシアトルで唯一残った家族経営の葬儀社だという。社員がおおらかなような気がするのは、そのせいかも知れない。
 理想とはほど遠いお別れ会だった。でも家族だけのアットホームな式に、参加者の満足度はとても高かった。町内会と葬儀屋に任せ切りにするより、納得もいく。自分の体験からして、ジミ葬は相当の勢いで広がるに違いないと思う。

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