prev
12 「問題発生。移植の緊急停止」

◇ドナーが乳ガン。移植ストップ◇
 96年8月31日のことは今でも鮮明に思い出すことができる。
 いよいよ骨髄移植の前処置(抗ガン剤の大量投与と放射線の全身照射で、ドナーからの骨髄を輸血する前に、患者由来の骨髄を根絶する)が8月26日に始まった。抗ガン剤が4日間に渡り投与され、放射線は5日間に11回照射される。さすがに、緊張の日々。スペースシャトル打ち上げのカウントダウンの心境だった。ちょうど抗ガン剤の4日間に渡る投与が終わり、放射線照射が始まる日であった8月31日の朝、ドナーである義母が私の部屋に思い詰めた面もちでやってきた。「胸にしこりがあるんです。乳ガンではないでしょうか」。シャワーを浴びているときに、自分で気づいたという。
 脳天を直撃されたようなショックが襲うと同時に、「まさか、そんなことはあるまい。すべてのしこりが悪性であるわけではないし」と思った。とにかく秒読みは開始されている。ぐずぐずはしていられない。すぐハッチの外来に電話をして、駆けつけた。
 週末担当医が触診した第一印象は「境界線がはっきりしているので、悪性でないだろう」で、ホッとする。外来のその月の担当医であったワグナー先生がすぐ馳せ参じた。触って感じられるしこりの大きさは3センチかける4センチ。ガンかどうか分からないが、とにかく万全を期して、妻への放射線照射は、すでに終わっていた早朝の1回目のあとは停止された。ワグナー先生は、もしガンであったら、かなり進行している可能性があると見た。4段階分類(1が初期、4が末期)で、「少なくとも2期」ということだった。移植については、「骨髄への転移がなければドナーにはなれるのではないか」というのが当初の見解だった。

next

 緊急の骨スキャンと生検が行われた。その日の夜遅く出た結果は「悪性」であった。また、その後ハッチ医師団の合議により、「乳ガンであると分かった以上、ドナー資格はない」ということになった。骨への転移が検査では見られなくても、わずかな数の細胞が血流に乗って循環していないとは限らない。前処置で免疫を抑制した患者の体内に入れば、たったひとつの細胞でも繁殖する可能性がある。
 骨髄移植ならぬ「乳ガン移植」になりかねないのだ。
 骨髄移植はひとまず、中止・延期となった。妻にも事情が伝えられた。妻は驚いていたが、落ち着いていた。もっとも、拍子抜けし、これから先のことを少し心配していた。
 前処置を半分終えた妻の体にいったい何が起こるのか。ハッチ医師団の見解は、ここで中止しても、「自分の骨髄が戻ってくるはずだ」というものだった。あと1日か2日発見が遅ければ、「移植なしでは致死量となる前処置量となった」という。再度スペース・シャトル打ち上げにたとえると、補助エンジン点火あとの打ち上げ2秒前に、緊急停止装置でエンジンを消火・冷却し打ち上げを中止した、という感じだ。こんなことは、世界でもほとんど前例がない。
 移植は仕切り直しとなり、次のドナーを選定し直すことになった。結局、骨髄バンクからの非血縁ドナーにお願いすることになる。母の乳ガンは精密検査の結果、第1期の早期発見と分かり、後に日本で無事、成功裡に手術を終えた。

next

-15-

16 「アメリカの病院の改革」

◇変革迫られるハッチンソン病院◇
 「世界一のガン病院」と呼ばれるスローン・ケッタリング。「世界一の骨髄移植センター」と自他共に認めるフレッド・ハッチンソン。両方ともまだしばらくはそう言われ続けるだろうが、いろいろ悩みがあるのも事実である。ハッチで治療を受けている間に、ハッチの模索する姿が見えてきた。
 唐突かも知れないが、ハッチを同じシアトルに本拠があるボーイング社と比べると面白い。
 ボーイング社の歴史は技術革新で世界を引っ張ってきたそれである。大型機、超音速旅客機、大量輸送機(ボーイング747)・・・。こうしたブレークスルー(大きな技術的飛躍)を率先して果たしてきた。会社のアイデンティティ(自己認識)も「技術と挑戦のボーイング」にあった。だが、ボーイング747以来、小さな革新はあっても大きなものはない。飛行機のスピードが格段に早くなったわけでも輸送定員が2倍になったわけでもない。ボーイング737や777などのいわば傍系モデルを開発したり、ボーイング747−400といったハイテク武装した改良型を加えてきただけだ。
 また、80年代後半以降は世界の旅客数の伸びと旅客機新規発注が低迷した。旅客航空機分野が技術的にも市場的にも成熟してしまったのだ。そこに、非ボーイング大連合であるヨーロッパのエアバス社が攻勢をかけてきた。
 もはやボーイングは技術的な優秀さだけで迎え撃つことはできない。ボーイングが非凡だったのは、その点に自分で気づき違うやり方をすることができたことだ。マーケティング(販売戦術=航空機会社のニーズに合わせた細やかなモデルの変更)、思い切った外注化と社内経費節減によるコストダウン、製造・組み立て部門の品質管理向上(カイゼン運動)などで対処したのである。

next

 会社の社是と経営トップが社内に発するメッセージもそれに合わせてガラリと変えた。技術屋支配を自ら崩し、技術に対する過剰なプライドとこだわりの姿勢が社内でたたき壊されていった。これがボーイングが10年あまりの不況を乗り越えて、将来性ある優良企業としていま力強く復活しようとしている理由である。ボーイングは今や技術だけでなく、マーケティング力と製造力で立っている。「技術主義」から「顧客主義」への転換と言い換えることもできるだろう。
◇栄光のハッチに潜む転機◇
 フレッド・ハッチンソンも同じである。骨髄移植においてぬきんでた存在でありつづけた。骨髄移植という技術は、事実上ハッチで開発され完成され、その成果が世界中の他の病院に伝播していった。ハッチにダントツ世界一の患者数・移植数・症例が集中するため、多彩な比較研究や臨床研究が可能となり、その結果が新しい治療に応用されるという好循環を生んだ。他の病院では症例が少ないため、なかなか意味のあるレポートが作成できにくい。ハッチを牽引してきたトーマス博士はこうした功績でノーベル医学賞を受賞した。
 ところが、ハッチの開発したやり方は徐々に他の病院でも模倣されるようになった。ハッチ出身の医師が他の病院に技術を伝播しもする。他の病院は連合して共同研究方式によって、十分な症例数を確保するようになった。今では、どこの移植センターでも似たりよったりの方式をとる。まだ症例数ではハッチを越えるところは出ていないが、ハッチの半数以上を行うところは米国に数件ある。臍帯血移植(新生児の臍の緒からとった血を使った移植)では、デューク大学が先行するなど、特定分野ではハッチの優位は崩れてきた。
 骨髄移植技術は、将来的には大きなブレークスルーがあるかも知れないが、大づかみに言えばこのところ停滞している。地道なカイゼンで成績をじわじわ向上させている時期と言えるだろう。

next

-16-

 基礎技術は停滞の時代、骨髄移植症例数での占有率(シェア)は低下していく。優れた技術が前提になるのは当然としても、それだけでは違いが出しにくくから、マーケティングと品質管理での勝負になるのは、航空機市場とまったく同じだろう。ボーイングはその10年改革をほぼ一通り終えた段階と言えるだろうが、ハッチの改革はまだ端緒についたばかりだ。一部の幹部に危機意識はあるが、まだ組織全体に浸透するには至っていない。◇患者主義の改革者。ジム・ウエイド先生◇
 なぜ医療分野ではもっと問題が困難か。技術の細分化が進行しているからだ。また、売り上げ低迷といった分かりやすい症状が簡単に外見に出ない。さらに、専門家である医師の考えに異議を唱えることも難しい。
 がん研究所に付属した病院の専門医は第一に研究者である。たいていの先生は、細胞の人工培養、血球増殖要因などといった先端基礎研究を専門としている。日頃は実験用のネズミや犬を相手に大半の時間を過ごしていることが多い。論文を書き、学会で注目されるためには、世界や自分の所属する研究所内で、できるだけ他の人と重複しない分野を選定しがちになる。ここに専門バカ化する恐れが潜んでいる。自分の研究が直接の臨床にどう役立つ可能性があるのか想像することもだんだん難しくなっている。一方、医師たちは自分たちの猛烈精神と努力に人一倍の自負をもつ。また、ハッチで働いていることからくるプライドも高い。
 トーマス博士の時代には、すべてを自力で開発してきた。骨髄移植の全貌が視野に入り、すべての患者とも接していた。だが、医療と研究の高度化・成熟化で一人ひとりの研究者に全体像が見えにくくなり、患者と接する時間も減少した。ハッチの名前は骨髄移植界であまりに燦然と輝いている。ハッチに限らないかもしれないが、およそ役職が高い先生ほど近寄り易く、若い医師ほど傲慢さがある。
 幹部は危機感を抱いている。命題は「研究所から病院になること」とも言えるだろうか。ハッチは伝統的に臨床研究部長(実質的な病院長)職と医療部長(実質的な副病院長)を兼務としてきたが、患者の立場からの改革が必要だと、医療部長を独立ポスト(役職)にすることを決めた。ハッチはこのポストのために全米からのスカウト作戦を展開し、ジェイムス・ウエイド氏に白羽の矢を立てた。

next

 ウエイド氏は46歳。若い頃ハッチで修行。その後、ワシントンDC近くのボルチモアのジョン・ホプキンス大学の病院でめきめきと頭角をあらわした。そしてある上院議員のスタッフとして、連邦医療改革法案の立案・作成にかかわった。ハッチがウエイド氏を招へいしたとき、氏は改革法案立法準備の詰めの段階にあり、それを受けることができなかった。ハッチはポストを空白にして1年間ウエイド氏を待った。ウエイド先生はまさに「改革屋」としてハッチに迎え入れられた人物である。
◇治療の継続性の重要性◇
 ハッチの矛盾は「ローテーション制度」に凝縮している。ハッチには主治医制度がない。外来でも入院病棟でも担当医が1カ月ごとに変わっていく。教授、助教授クラスのアテンディングと呼ばれる最高責任をもつ医師が毎月7日に変わり、講師、助手レベルの責任医が毎月1日に入れ替わる。入院病棟では責任医と担当医2人が1チームとして約20人の患者を受け持つ。これが3チームある。
 ローテーション制度は患者の立場からすると弊害が多い。まず、せっかく先生の人柄も知り、こちらのことも理解してもらったころに担当替えになるのは、人情として寂しい。また、いくらきっちり引き継ぎをして、新任の先生がカルテをしっかり読んだといっても、細かな情報がしっかりと伝わらない。病歴、感染症歴、薬への副作用の癖など、治療上重要な情報がすっぽり抜けていることもある。
 さらに言うと、無責任体制の温床となりかねない。「自分の担当期間に何事も起こらなければよい」「無難に次の医師に引き渡せれば」。無意識でもそうなりがちである。医師に苦情を言いたいと思ったときにはもう当人はいなく、次の医師になっている。交代期に治療が難しい局面にあるときには、一から事情を説明しなければならず、とても不安である。
 治療の継続性に問題なしとしない。また、短期の担当になるため、どうしても患者を精神的なもの、家族や環境などを含めた全体的な視野から見ることが疎かになる。
 これは技術優先時代の名残であり、一種の「大量生産方式」の発想である。研究者としては主治医制度より利点がある。主治医方式では担当月以外も週2回ほどの外来診察を受け持たなければならないが、ローテーション方式では担当月以外は研究に専念できる。ハッチでは医師の年間の平均病棟担当月数も少な目に設定されている。また、医療助手(PA)制度を採用。とくに外来部門では、日常の検診・治療は医師免許さえ持たない医療助手が主治医のような感覚で患者を担当する。

next

-17-

 こうして医師は他の病院より、研究時間が長く取れる。ハッチはこうして研究開発を優遇し優位を保ってきた。しかし、これは「消費者(患者)」でなく「生産者(研究者)」の視点からできた仕組みだ。しかも、基礎研究が直接、治療の進歩・成績向上に貢献する度合いは低くなってきている。
 ウエイド先生は、「ハッチは患者を包括的に見たり、患者の立場から考えることは得意ではない。そこを直したい」と自覚する。そして「目標は主治医制度の導入」と明確にいう。一気に主治医制度には行けないので、とりあえずの新施策を採った。核となるベテラン医師群を作り、その医師たちが年間6カ月程度まとまって担当医になる。その医師が外来、入院病棟、外来という順序で1カ月ずつ受け持てば、多くの患者を3カ月連続して見ることができる。もっとも、これは主治医制度にはほど遠い。
◇ウエイド先生との信頼関係◇
 ウエイド先生の名前はうわさには聞いていたが、実際に始めて会ったのは97年1月、移植後80日で再発して入院したとき。入院病棟の担当医がウエイド先生だった。ウエイド先生が他の先生と異なっているのは歴然としていた。
 初診のとき、病室にやってきたウエイド先生は妻を1時間半ほどかけてみた。これまでの先生なら10分程度だろうか。完全に部下の講師や助手任せにする医師さえいる。聴診、触診はとても丁寧で、皮膚の状態なども目を皿のようにして、ためつすがめつす見る。患者の言うことに興味深く耳を傾け、患者にゆっくりと話しかけ、常に患者のどこかしらをなぜている。質問には背景知識までつけ加えてよく説明する。この完璧なベッドサイドマナー(患者に接する態度)には圧倒された。「ただ者ではない」のは一目瞭然だった。

next

 仕事にかける熱情には並々ならぬものがある。「何かあったら、朝6時から深夜2時までいつでもどうぞ」が口癖。ほとんどの担当医は夕方に帰宅するが、ウエイド先生はいつも遅くまで居残っている。開放型に設計されたナースステーションの一番廊下に近い机でいつもカルテを書いている。一番、患者や患者家族につかまり易いところに身をさらしているわけだ。
 廊下ですれ違っても必ず向こうから挨拶するし、質問すれば立ち話で答えてくれる。口先では「何でも聞いて」と言いながら、廊下ですれ違っても、うつむいて通りすぎる先生も少なくないなかで(とくに担当になった直後は自信がなかったり、緊張したりしていることが多い)、違いは歴然だった。 診察もカルテ書きも部下に任せず、率先垂範しながら教えるタイプ。見るからに自信に満ちている。「改革者ウエイド」に対し、病院内では疑心暗鬼と反発もないではなかろうに、びくともしない迫力でぐいぐい引っ張っていく。実力と意志疎通のうまさで、看護婦・夫さんたちにも圧倒的に人気があった。妻もすぐにファンになった。
 妻が亡くなったあと、ウエイド先生は電子メールをくれた。「出張中だったため、死に目に会えず、申し訳なかった」。こんなことを言った先生は他にいない。その月の担当医だって死に目に来やしなかった、たまたま夜番だった担当医(講師クラス)が立ち会っただけだ。ウエイド先生が患者の死に目に立ち会うことを当然と考えているだけでも奇特なことだ。患者と家族は信頼する医師に死に目にいて欲しいと思う。不安だし聞きたいことは山ほどある。妻は死亡する12時間ほど前(意識を失う1時間ほど前)、「ウエイド先生はどこにいるの。ウエイド先生はどういう意見なの」と言った。最後の言葉のひとつである。
 妻の死後に開いた「お別れパーティ」に駆けつけてくれたウエイド先生は、「申し訳ないことをした。20年来の付き合いの患者さんが亡くなったので、お葬式に出るためにワシントンDCに出かけていたんだ」といった。妻の霊前にそう伝えた。
 ハッチは問題を抱えている。だが、問題を抱えていることを自覚もし、公言もする。そして改革に着手してもいる。さて、日本のがん病院はどうであろうか。

next

-18-


目次