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6 「戦略会議」

◇中期展望求めて先生と話す◇
 初回と2回目の化学療法はトラブル続きだった。雑菌に感染したり、点滴用のラインの入り口から炎症を起こしたりして、40度ぐらいの熱が何日も続くようなことが数回あった。点滴ラインの交換手術も繰り返した。「ライン運がない」と医師団もため息をついた。6歳の一人息子が妻の病室で転倒して骨折するというおまけまでついた。この事件には家族全員が大きなショックを受けたし、2人を介護する私の体力は限界に近づいた。ようやく手離れしかかった子供だったが、片手を吊って痛みもあると、とたんに手間がかかる。
 妻は薬剤に過敏ぎみで、ほとんどの薬に対してことごとくと言ってよいほど副作用反応を出す。吐き気、頭痛、発熱、発疹などのオンパレード。回りにはけっこう平然としている患者もいる。この点では人一倍苦しんだ。
 なかでも、副作用が一番きつかったのは、アスペラジラスという菌類に対する唯一の特効薬である「アムフォテラシンB」が引き起こすものだった。妻が「南極に急に放り出されたほど」と表現するほどの寒気が襲い、ベッドから落ちかねないほど全身ががたがたと震え、呼吸困難におちいるほど息が激しくなる。それが、10分から25分ほども続く。体を何重にもタオルケットでつつみ、体を抑えてさすり、ときには酸素吸入を行う。
 震えが終わっても、しばらくは息が上がったままで、疲れ切ってそのままぐったり眠り込む。みていると、まるでエクソシストの悪魔払いのシーンのような光景である。「えらい病気になってしまったことだ」。このときだけは、僕もがっくり落ち込む。アスペラジラスはいったん感染すると致命的になる可能性がきわめて高いのでこの薬の投与は不可欠だ。アムフォはもうかなり前に開発された薬だが、いまだにこれより薬効が確実で副作用が少ないものが見つかっていない。
 主治医も「大筋は順調だけど、どうもいろいろ小さいトラブルが多いわね」とぼやいた。こうして日々のことが精一杯で2カ月ほどが過ぎようとしていた。
 ようやく2回目の化学療法の山場を越えたころ、中期的見通しが欲しいと思った。入院病棟の先生は日々を乗り切ることに関心が強く、月々で交代するので、中期的展望には興味が薄く、かつ責任主体ではない。主治医のガブリラブ先生は研究肌で、あまり入院病棟に訪ねてこないタイプ。いつでも電話してよいと言われているが、なかなかそんな余裕もなかった。病室に先生が来たときは、日々のトラブルの話題に終始しがちだ。そこで、面会を申し込み研究棟にあるオフィスを訪問した。
◇主治医の突然の方針変更:骨髄移植推薦◇
 ガブリラブ先生はカルテをめくり目の前で考え始めた。「遺伝子分析からはたぶん悪性の分類(良性、中程度、悪性の3分類で)になるわね。第一寛解のうちに移植をした方が良いかもしれません」。エーと驚く。先生は親友の女医である、移植チームのジャクバウスキ先生に電話をかけた。電話をおくとこう説明する。

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 「やはり移植チームとしては、この場合には移植が適応と考えるようだわ。しかも最近の研究では移植前のキモ(キモセラピー=化学療法)は少ないほどよいことが分かってきたらしい。できれば、2回目のキモのあとに骨髄バンクのドナーから移植をした方がよい。それがスローンの移植チームの推薦です。いくらでも相談に乗ります。良く考えて自分たちで決めて下さい。移植しないと決めても結構です。ちゃんと私が責任をもって見続けますから」。
 そうだとしたら、1カ月か1カ月半で移植ということになるではないか。「ちょっと話が違う」。それならそうと早く言ってほしかった。4回コースの強力化学療法に参加し、姉の骨髄の型も一致しなかったので(兄弟がドナーになれる場合はすぐ移植とは聞いていた)、当面、骨髄移植を考えなくてもよいのは気が楽だと思っていたのに。
 しかし、先生は同じことを繰り返すのみである。医者は完璧ではない。白血病でもいろんな分類と悪性度がある、かつ最新の成果を勘案して病院の標準治療方針も定期的に見直しされる。各々の医師があらゆる種類の病気をすべてを把握しているわけでは決してない。とにかくぐずぐずせずにドナー検索を急ぎ、決断も早くしなければならない。これからはお医者さんと話をする頻度を高め、密度を濃くし、問題点をしっかり詰めなければ、と肝に銘じた。一方で今日面会して良かったとも思った。こっちから切り出さなければ、さらに1、2週間こうした話題にならなかったかも知れないのだ。
 骨髄移植の選択は命を賭けた選択である。移植をすると生死の結論が急に出る。3カ月以内に移植からの直接の原因で致命的になる可能性が2、3割ほどある。化学療法だけで治るかも知れないのに、そんなリスクを取るのは恐い。
 化学療法だけで治癒する率が4割あるとする。移植の副作用からの致命率が3割だとする。移植を選択した患者のうち、1割(4割×3割)は、すでに化学療法で治癒していたのに、移植したばっかりにみすみす命を失うことになる。自分だけは化学療法だけで治ってしまうのではないか、という自分中心の気持ちもある。しかし確率論だけからいうと、移植の方が生存率が高くなるかも知れない。
 「あと1年確実に生きていたい、そのうちにやり遂げることがあると思うなら化学療法。でも全体の治癒率は少し損をする。死ぬリスクはあるが、長期間に渡って生存できる可能性を最大にしたいなら移植。人生観の選択です」。そういう先生もいた。
 移植に踏み切るべきか、このまま様子をみるべきか、それが問題だ−−。まさにハムレット的心境である。
 自分で考えていても分からない。とにかくスローン・ケッタリングの知り合いのお医者さんに片っ端から意見をきくことにした。

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7 「食い違う意見」

◇移植か化学療法か。多い選択肢◇
 いろんなお医者さんに意見を聞いたところ、同じ病院内でもお医者さんによってまったく考えが違うことが分かった(次表参照)。
先生名推薦・意見
ガブリラブ先生と
ジャクバウスキ先生
非血縁から骨髄移植。
できるだけ早く
バーマン先生どちらかと言うと非血縁骨髄移植
決断は患者の考え方次第
ワイス先生超・強力化学療法の継続
再発時には自家骨髄移植
ジュルシック先生どちらかというと
化学療法の継続
 ガンの治療においては、外科手術、化学療法、放射線療法のどれを選択し組み合わせるか、複数の選択枝があることが少なくない。また、ひとくちに手術といっても、乳ガンの乳房温存療法と全摘出法のような選択がありえるし、放射線でも外部からの部分照射か放射性物質の患部埋め込みなど複数のやり方があり得る。化学療法では、どの抗ガン剤をどれくらいの量使用するかで様々なものがある。
 選択肢によって統計的な治癒率にけっこう差があることもある。どれを選んでも治癒率が似たようなものである場合もあるが、個別の患者にとってはどちらかだけが生還への道かも知れない。患者によって向き・不向きがあるかも知れない。やはり運命の選択になりかねない。
 妻の場合、もし遺伝子分析が良性ならば化学療法の継続ということで、簡単に結論が出た。姉の骨髄の型が一致していれば、骨髄移植でほぼすんなり決まった。しかし、ちょうど微妙な判断になるケースだった。
 もちろんスローン・ケッタリングは医局会議で各患者についての治療方針を合議制で確認する。主治医の独断では決定できない。だが、最終的には主治医に決定権がある。合意が成立しても、各医師の内心の意見が異なるということはある。同じ病院の中で、お医者さんの意見が分かれるというのは、患者にとっては混乱することでもある。だが、このケースでは誰が考えても微妙な問題であるから、意見が割れるのが自然だ。米国の病院でも普通は、主治医以外は治療方針へのコメントを避けるだろう。それを自由に披露するところがニューヨーク流である。
 後になって別の意見があることを知るよりはよほどいい。移植を決断して後に引けなくなって、化学療法を支持する新しい情報を得たり、移植を考慮していなくて急に移植したいと思っても間に合わない。あり得る意見はすべて知っておいた方がよい。
◇自分の専門をひいきする医師たち◇
 主治医の意見と対極だったのはワイス先生の考えであった。ワイス先生はもっとも年輩の医師である。「散髪屋に行って、散髪した方がいいかと聞いてごらん。散髪を薦めるのは決まっているさ」とウインクしてみせた。移植専門医は移植の肩をもち、化学療法の専門家は化学療法の利点を強調するというのだ。
 「遺伝子分析から悪性度を判定するのは、まだ確立した手法ではない。悪性と分類されても、悪性でないかも知れない。

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再発した場合も、非血縁からの同種骨髄移植は失敗リスクが高いから、自家骨髄移植が良いと思う。自家骨髄移植のチーフにも会って話を聞きなさい。これ以上は僕に意見を求めないで。病院内の立場もあるからね」
 バーマン先生の研究室にも行った。同先生は、週刊誌「ニューヨーク」のニューヨークの名医リストに、スローン・ケッタリングの血液専門医から唯一選出された、若手だが俊英の女医さんである。学会での知名度も高く、米国で強力化学療法専門家のトップ集団を走る。スローン・ケッタリングの化学療法のほとんどのプロトコル(治療計画書)を主任として策定している。臨床にも強い。
 もともとTが参加したプロトコルは、化学療法だけで60〜70%の治癒率を目指すはずのもの。伝統的化学療法の25%程度に比べて、高いところを狙っている。しかし、バーマン先生は「良性のものは高い治癒率が望めるが、悪性分類なら旧来のものと同じ程度の20%ぐらいしか見込めない」という。どちらかを薦めるということはなく、「微妙なところなので、よく考えて選択して下さい」ということだった。若手のジュルシック先生は、「数字はともかく、最初から大きな賭(移植)をするのはどうかと思うよ」と感想をもらした。
 移植すべきかどうか。世界1の骨髄移植センターであるシアトルのフレッド・ハッチンソンの意見を聞きたいと思った。
 主治医のガブリラブ先生は「セカンド・オピニオンを取ったらどうですか」と薦めてくれた。セカンド・オピニオンとは、他の病院にカルテを持参して、治療方針について意見を聞くこと(第2章の6項で詳述)。そして、フレッド・ハッチンソンがん研究所のアッペルバウム先生の連絡先を教えてくれた。アッペルバウム先生はハッチンソンの病院長である。正式なセカンド・オピニオンを取る前に、まず意見を聞く手紙を送った。返事は「もっと詳しいことをお尋ねして詳細な分析が必要ですが、あなたが手紙で説明された情報からは移植が適応だと思われます。もっと詳しい情報を送って下さってもけっこうです。追加質問はご遠慮なく」。
 もうひとつ、本当に悪性に分類して良いのかという疑問が残った。峯石先生が、この分析について世界1の権威である女医のブルームフィールド先生の名前を教えてくれた。同先生が所属するニューヨーク州立大学付属ローズウエルがん研究所は、治療としては化学療法が中心だ。だから意見に骨髄移植へのバイアスがかかってないはずだという意味もあった。
 ブルームフィールド先生に意見をきくためにファックスを送った。出張中の本人に代わって、部下のカリジルーイ先生(免疫療法の権威)がすぐに電話をかけてきてくれた。「われわれはこれを悪性に分類します。移植が適応だと思いますね」。
 どうやら移植を真剣に考えた方が良さそうな雲行きになってきた。だが、仮に移植すると言っても、どこでどの方式でやるかという検討がまだ残っている。日本か米国か、ニューヨークかシアトルか、「Tセル除去方式」か旧来方式かという問題である。

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8 「フレッド・ハッチンソン病院のセカンド・オピニオン」

◇全く異なるシアトルの推薦内容◇
 3回目の化学療法の入院が近づいていたが、その前に治療方針を明確にしておいた方がよい。化学療法開始を少し延ばすことによる再発リスクはそれほど大きくない。そこで、入院を約2週間遅らせて世界1の骨髄移植センター、ワシントン州シアトルにあるフレッド・ハッチンソンがん研究所のセカンド・オピニオンを取ることにした。
 母からの一刻も早い移植を推薦する−−。
 意外な内容だった。義母の骨髄の型は移植に適応しないとすでにケリがついていた。スローン・ケッタリングの検査で、Tと母の一致度は「6分の4」。6分の6か、6分の5でないと普通は移植の検討範囲には入ってこない。問題は一致度をいうときの定義で、義母の型は旧来の血清学的検査法では6分の5で、新しいDNA検査法によって分子ひとつひとつのレベルまで調べた場合が6分の4になるのだった。これを6分の5とみるか6分の4と解釈するか。これが両義的で微妙なところだ。
 骨髄移植の型合わせとは、免疫を担う遺伝子(HLA)の一致のことだ。細胞の中の核にある染色体。その1本の一部に免疫を担う遺伝子がならんでいる。さらにクローズアップするとA座、B座、D座と呼ばれる3つの重要な場所(ローカス)がある。あらゆる人は、母と父から1セットずつこれを引き継ぐので、A座、B座、D座ふたつずつ合計6つをもつ。
 移植には患者とドナーの型の一致度が高いほどよく、ミスマッチ(不一致)があると、互いを異物と認識して攻撃し合う。GVHD(移植片対宿主病)と呼ばれる一種の拒絶反応をはじめ、さまざまな問題が出やすくなる。また、血縁の6分の6と非血縁の6分の6を比べた場合、血縁の方がよい。3つのローカス以外にも、免疫機構にかかわっている遺伝子があり、家族の場合、免疫機構をつかさどる遺伝子のセットをまるごと共有しているからである。

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 ハッチンソン研究所の調査では、「D座を細部まで遺伝子レベルで一致させることが重要であるが、A座とB座は血清学レベルで十分」との結果が出ている。ハッチでは、A座とB座はDNAレベルの検査さえしない。一方、スローンではすべてをDNAレベルで見る。HLAの一致度を語るとき、どの定義にのっとっているのか注意する必要がある。こうして義母の型はスローンでは6分の4であり、ハッチでは6分の5であるという、ヌエのようなことがおこる。
 ハッチの判断は「6分の6一致の非血縁ドナーと、血縁の6分の5の好適度は同じぐらい。血縁ドナーはすぐ移植できるから、総合判断としては血縁が有利」というもの。
 「それでも、型は違っている・・・」。主治医のガブリラブ先生あてのハッチからのセカンド・オピニオンを読んで、スローンの移植担当医のジャクバウスキ先生はガリレオ・ガリレイのようなセリフを呟いた。血清学的な一致は試験管の中で生物的に反発するかどうかの観点、遺伝子分析は構造が同じかどうかという観点。試験管の中で反発しなくても、体内では反発するかも知れない。構造が違うということはその可能性がある。遺伝子分析の方が厳密ではある。
◇HLA一致度は相対判断◇
 知らなかったらまだしも、いったん6分の4と聞かされたものを今さら6分の5と言われても心理的に抵抗がある。さいわい、骨髄バンクから6分の6の完全一致のドナーが見つかりそうだったので、そちらの方が良いような気がした。
 その頃、新聞に掲載されたひとつの記事が目についた。厚生省の委託を受けた研究班が、日本の骨髄バンク(骨髄移植推進財団)を介して行われたこれまでの骨髄移植を事後分析して得たレポートについてのものである。そこには、「A座とB座のDNAレベルでの型合わせが大切」とあった。DNAレベルで一致していれば、1年後生存率が約6割、血清レベルのみだと4割程度という。一見、ハッチの研究と逆方向の内容に見える。

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この疑問を解かなければ、決断はできないと思った。日本人ではA座、B座が重要だとしたら、A座が不一致の義母より非血縁ドナーの方が良いということになる。この研究班の委員長である笹月健彦先生(九州大学生体防御研究所教授)に国際電話をかけた。
 研究室に電話をするとすぐに教授本人が出た。「あのレポートはまだ中間報告であり、もっと詳細に調査する必要があります。個別の患者でどちらが良いかは難しい判断。ハッチの推薦なら間違ってないと思います」。この親切さと率直な謙虚さには感銘を受けた。自分たちの研究を絶対視することはない。そして、またしてもハッチの名前の重さを感じた。ひとつの調査レポートから、個別の患者について判断することは難しい。臨床における判断は、臨床経験からみた総合的見地から行われなければならない、ということか。
 (後に笹月教授は親友であるハッチのジョン・ハンセン臨床研究部長を紹介してくれた。ハンセン先生は妻が入院しているときは、ときどき病室にまでお見舞いに来てくれた。笹月教授もハッチに出張した時に病室を訪問してくれた。ちょうど移植の前日だった。移植当日には笹月先生がハッチで行った講演を聴きにいった。妻が再発したあと、ハンセン先生がはじめて明確に「絶望的である」ことを教えてくれた。僕はハンセン先生の前で大泣きしてしまったが、ハンセン先生はそれを優しく受けとめてくれた。ハンセン先生は少し前に自分の妻をガンで亡くしたばかりだ。血液ガンでなく固形がんだったが、最後の望みをかけて骨髄移植を行った。その執念はすごい。ハンセン部長はこの97年1月から米国骨髄バンク=NMDPの理事長を兼務している)
 ハッチの調査と笹月レポートは一件矛盾する。この解釈についてはいくつかの仮説がなりたつ。

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 遺伝子のタイピング技術はどんどん進歩する。いくらでも詳細に分析できるようになろう。問題は「その患者のおかれた条件の中でどのドナーを選択するか」という判断の論理と基準の方がそれに追いつかないこと。完全一致ドナーが見つからないとき、どの程度の不一致まで許容できるのか。一致ドナーが複数見つかるとき、その中でどのドナーを選択するか。多くの要素が絡み合い、完璧はありえない。誰がどう決めるのだろうか。
 笹月レポートの結果、日本の骨髄バンクの運用が変更され、A座、B座をDNAレベルまでタイピングするようになった。この変更の直前には、新基準が実施されるまで患者や医師がドナーの選定をひかえるという現象がみられた。できるだけ精密に型合わせをしたいのが人情である。一方で、時間とのバランスも重要だ。急性白血病の患者で第一寛解(抗ガン剤治療のあと、ガンがみられない状態)時の治癒率が60%で、再発した場合の治癒率が40%だとしたら、時間待ちしている間の再発リスクも織り込んで判断しなければならない。慢性骨髄性白血病の慢性期と急性転化期の移植による治癒率が30ポイント違うとしたら、時間との闘いと知った上での決定になるわけだ。
 母をドナーとする妥当性にはだいたい納得が行くようになった。ハッチの推薦に逆らって、非血縁ドナーからの移植をハッチに依頼するほどの強い根拠もなさそうだ。そのとき、驚いたことに、スローンの方が推薦内容を変えてきた。

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9 「移植病院の決定」

◇スローンの心変わり◇
 驚いたことにスローン・ケッタリングも「母を第一ドナー候補にする」と方針を転換した。医局会議で議題にし、スローンの衆知を集めて検討した結果だった。
 移植担当医のジャクバウスキ先生は苦しげにこう説明した。「タイピングはどんどん厳密にやれるようになっているが、時にはやりすぎということもある。この場合、母を6分の5と考えて、早急に移植することが妥当だろう」。ハッチの追随をしたのがアリアリだった。ハッチの意見を聞く以前に、衆知を集めて総合判断しておくべきではなかったか。第一、この方針が最初から提示されていれば、1回目か2回目の化学療法のあとで、もっと早く母からの移植をやっておくべきであった。このペースでは早くても3回目にあとになる。当のジャクバウスキ先生が「化学療法が少ないほど移植の成績が良い」と言っていたのだから。
 ジャクバウスキ先生は妻に適用するプロトコル(治療計画書)とインフォームド・コンセント(説明の上の同意)のための書類をくれた。「急性骨髄性白血病の第一寛解期の患者へのHLAミスマッチドナーからの移植」。このプロトコルは従来からあったが、実際にこれにのっとって治療を受けるのは妻が第1号であった。スローンはたくさんの白血病の患者を受け入れているが、血液疾患にはいろんな種類があり、プロトコルも病気の種類・段階・年齢で多数ある。だからこのプロトコルでは妻が第一号。経験がないことを他の病院の意見に追随してやろうとしている。スローンの混乱と自信のなさ、そしてハッチの影響力の大きさを痛感した。
 こうしてドナー選定に関する両病院の意見は一致した。だが、移植方式は異なった。スローン・ケッタリングが「Tセル除去方式」でフレッド・ハッチンソンが「従来方式」である。
◇「Tセル除去」対「従来方式」◇
 「Tセル除去方式」はドナーの骨髄液からTセル(T細胞)を除いてから、患者に移植(輸血)する。Tセルはリンパ球の一種で、免疫の司令塔の役割を果たす細胞。これを除くことで、ドナーの骨髄とここから作られる血液が、患者を異物と認識しないから、GVHD(移植片対宿主病)が出ない。
 一方で再発率は高い。GVHDにはGVL(移植片対白血病)という効果があるからだ。ドナーの血液にとって、患者の白血病細胞も異物。白血病細胞がまだ残っていた場合、これを免疫反応で撃退する。

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Tセル除去ではこの効果が見込めない。また、Tセルが全くないので、患者の免疫力がゼロに近く、感染症罹患率が高くなってしまう。
 一方の「従来方式」は、骨髄液を移植してから、免疫抑制剤でTセルの信号系統を混乱させて活動を抑える。さらに、GVHDが出れば抗炎症剤であるステロイドの大量投与で対症療法的に抑えようと試みる。
 「Tセル除去方式」は登場時、移植の最大問題であるGVHDを抜本解決し、移植成績を躍進させるブレークスルーになるかと思われたが、その後は意外に停滞している。うらはらに感染症と再発が増え、それをコントロールしきれないからだ。一方、従来方式は、免疫抑制剤とステロイドの使用法の微調整などのカイゼン手法でじわじわ成績を上げている。スローン・ケッタリングは「Tセル除去方式」の総本山。皮肉なことに同手法を採用する他の移植センターでは成績が高いところもあるが、スローン自体は最近は成績が伸び悩んでいる。
 スローンの非一貫性、このプロトコルでの経験の少なさ、近年の移植成績の低迷。こうした点から、両病院の比較ではハッチが大きくリードした。
 あと必要なのは、日本と米国の比較。また、ニューヨークを離れてハッチがある西海岸ワシントン州のシアトルに移ることが可能かどうか、サポートが十分にできるかなども考慮しておかなければならない。医療の側面からだけみれば、治療の選択の幅、医療技術、入院環境いずれにしても、米国に分がありそうに見えた。これは数人の日本人医師に電話して確かめた。専門医であるほど、フレッド・ハッチンソンやスローン・ケッタリングでの治療に異論を挟む人はいなかった。ある移植専門医は「基本的に、日本はフレッド・ハッチンソンから方法を学んでいるのです。文句はないでしょう」と述べた。
 マイナス点は、介護の支援が仰ぎにくいこと。また、治療が失敗した場合、「2度と日本の土を踏めない」という点を指摘する人もいた。しかし、日本に戻って治療に失敗したときの方が、米国に留まるべきだったと後悔するのは間違いない。多少の犠牲は払ってでも、米国を選択すべきだろう。
 米国での治療では、日本からの距離と文化・言葉の違いを考慮すると、私が介護の中心にならざるを得ない。骨髄移植の治療中は、仕事がほとんどできないだろう。まして、シアトルを選択すれば、職場を一時的に離れなければならない。勤務先からの支援を取り付けることが不可欠だ。さいわい、会社は理解を示してくれた。

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10 「治癒率をどう読むか」

◇たかが数字。されど数字◇
 成人病、慢性病、ガンなどの治療には治癒率という数字がつきものである。統計、数字という客観的なよそおいをもっているが、これが曲者(くせもの)なのである。「たかが数字、されど数字」。数字との付き合い方を知るのは、闘病の心がけの必須項目である。できることならば、数字にまどわされず、数字を御したいものだ。
 治癒率80%という場合。8割の人が治るのに、2割の人がそうでないのはなぜなのか。治癒率20%では、8割の人が無理でも2割の人は生還する。この神の選択は理不尽である。自分がどちらに入るかは分からない。
 治療の選択は一種の賭けである。だが、賭けは白か黒の2者択一。正解はひとつ。そして、必ず正解はある。治療の選択は、どれをとっても正解かもしれない。ひとつだけが生存への道かも知れない。どれを取っても治癒しないかもしれない。賭けはお金だけの問題だが、治療の選択は命をあずけている。賭けは負けたくなければ、下りればよい。しかし、治療の選択は、しなければ負けだ。治療の遅れや方針の混乱はプラスにならない。
 医者からできるだけ数字を聞き出したい。それが話を明確にし、選択を迅速にする。医者の頭と論理も明確にする。そして医者が数字を言ったとたん、どういう意味の数字かをすぐ確認したい。
 いかに数字が曲者(くせもの)か具体的にみてみよう。
◇リンゴとミカンを比べない◇
 例題1:「この化学療法のプロトコルでは、治癒率70%を目指しています」
 まず、これは期待値であり、実現値ではない。副作用や感染症の多発などの問題がおきて、開始直後にお蔵入りするプロトコルは少なくない。既存のプロトコルの過去の実績50%と、未実現の期待値を同列に比べられない。あわよくば、より優れた治療法であることを期待したいが、必ずしもそうではない。

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 プロトコルは科学的実証のためにある。だが、論文の数字は常に作られる。新しい治療法を試して、あまり改善がなかったと発表してもあまり手柄にならないからだ。医師はできるだけ良い数字を出したい。持病をもっていて脱落した人、途中で骨髄移植に切り替えた人などは、総計から巧妙に省かれることがある。
 例題2:「第一寛解時の移植の成功率は60%、移植なしに治癒する可能性は30%、第2寛解時の移植の成功率は35%です」
 第一寛解時に移植を決断すべきか、化学療法にして再発した場合に第2寛解で移植することにすべきか。このとき、単純に60%と35%を比べてはいけない。60%と65%(30%+35%)を比較するのでもない。
 現時点からみて、後者のコースを選んだ場合の治癒率は、移植なしで治癒する率に、再発してから第2寛解にもちこめる確率と第2寛解の移植成功率を掛け合わせたものを、足した数字になる。
 すなわち、移植せずに治癒する率が30%で、第2寛解導入率が25%で、第2寛解移植成功率が35%とすると、数式は30+70(再発率)×25×35=36%。
 化学療法だけで治癒する率が50%で、第2寛解導入率が40%とすると、同じく計算式は50+50×40×35=57%。
 強力な化学療法をしたあとで再発してしまった場合、骨髄移植ができる状態にもっていける確率がかなり低くなることにも注意すべきだ。
 例題3:「うちで骨髄移植をした患者さんで、10人中8人が生存されています」
 生存率は8割ということか。別の病院では6割と聞いた。こっちの病院がいい。そう思ったら間違いかも知れない。数字の定義の検討が必要だ。米国では「リンゴとミカンを比べるな」という。以下のように数字の定義はいろいろある。病院は高い数字を言いたがるので注意が必要。原則として、「5年無病生存率」で統一して(あるいはこれに修正して)比較するのがよい。

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1、現在、生存している率。移植直後の患者も3年後の人もごっちゃまぜ。
例題はこの定義である可能性が高い。評価や比較がしにくい数字。
2、3年後(あるいは4、5年後)の生存率。白血病を再発して治療を継続している人や治癒断念段階の人も含む。次の無病生存率より高めに出る。
3、5年無病生存率。これが本来の治癒率で使うべき数字だろう。治療後5年たって、白血病なしに生存している場合。クオリティ・オブ・ライフ(生活の質=どの程度の通常生活が過ごせているか)という点でも、高いポイントであることが多い。
 例題4:「残念ながらあなたの治癒率は20%です」
 治癒率が80%でも、ある個人にとっては100%か0%。治癒率が20%でもこれは同じだ。「自分が治れば、自分にとっては100%」ということを忘れずに。
 いずれにしても、お医者さんは数字を明確にはっきり言わない、言えない場合が多い。はっきり言わないのは成績が悪いと考えるのが順当だ。医療界でこんな慣行が通用しているのは信じられない。寿司屋の時価みたいで、明朗会計じゃあない。あるサービスをすすめておきながら、得られる期待度を説明しなくて良い業界は少ない。閉鎖的で特権的だった医療界ならではだ。医者の言い分は分かる。「うちは難しいケースを扱っているから不利だ。数字が低めに出る」とか。でも、それならそうと、数字を公開した上で説明すればいいことだ。

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 (米国でも移植センターの成績を完全にヨコ比較するのは困難です。でも、おおまかには分かります。移植成績という点では、ぜひインターネット上のこのサイト「移植成績」をご覧下さい。日本の大学別「生体肝移植」実施数・死亡数の集計表です。骨髄移植連絡協議会でも、ぜひ骨髄移植について同様のアンケート調査と集計を行っていただきたい。骨髄移植の対象となる血液疾患には種類が多く同列に扱えないのは承知していますが、まずこうした数字からしか始まらないと思う。こうした数字に、「当病院は慢性の経験が多い」「自家移植が得意」「難治性でも積極的に移植を行う」などの、コメントを付加すればよい。また、この集計表から、「生体肝移植」では京大が強力なセンターと化しているのが分かる。一カ所集中には長所短所あるが、どちらかというと経験の集約と統計的検証が進みやすいなどの長所が多い。個人的には骨髄移植でも少数の拠点が中核になった方がよいと思う)
 数字を明確にする作業が終われば、もう一度数字を突き放す段階があるだろう。たかが数字である。治療の選択にはあなたの人生観が入る。右に行けば60%、左に行けば40%。順当には右に行くべきでも、自分はどうしても右には行きたくないと思うかも知れない。右に行ってだめなら左へ向かえばと考えるかもしれない。
 でも、他人の治療経験から、ありがたいことに、ある程度先が読めるのだから、統計や確率も決して無視できまい。いずれにしても、後悔しないよう、数字の話はできるだけ早くから詰めておいた上で、決断したいものだ。

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11 「中締め:新しい患者−医者関係の模索」

◇ここまでの教訓◇
・いまだ完璧ながん治療法はない。お医者さんは神様ではないから、現在ありえるベストの治療法を瞬時に把握できるわけではない。
・お医者さんは真剣でも、一人ひとりの患者については、患者本人ほど真剣ではありえない。患者は24時間考えているが、お医者さんは研究と臨床と会議とプライベートの時間があり、臨床に当てる時間のうち、全体を患者数で割った時間しかひとりの患者に使う余裕がない。小さな情報や症状が治療方針選定に影響することがある。
・治療方針は主治医の協力を得て患者本人が選ぶ。質問をして医師の思考を触発しよう。でも、お医者さんに幻滅したり、非難ばかりしていても、何も始まらない。
・治療法はひとつではない。選択の余地がある
・お医者さんは、患者が選ぶもの。転院もしてよい
・主治医に遠慮せず、複数のお医者さんに意見を聞こう
・最初からできるだけ多くの意見を得る。全国・世界中から意見を聞こう
・セカンド・オピニオン、ときにはサード・オピニオンを取ろう
・主治医に隠れてやるのではない。主治医と異なる意見を、主治医にぶつけてみよう。反応で主治医の度量と実力が分かる。情報収集の過程をある程度は主治医に教えて、いっしょに議論する
・数字の魔術にだまされない。同じ数字を比べる。比べるために数字を修正する。

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