ニューヨーク闘病記 (文:木下明美)

アメリカでの医療体験ゼロであった私がこの最初の入院生活でおおまかな病院のシステムを把握した。各患者の手首には名前 と個人のIDナンバーが記されたリストバンドをつけてある。処置の前には、必ず書類のナンバーと本人のナンバーが同一であ るかを確認して行われる。処置ミスや人違いを防ぐためでもあろう。私の場合は勿論手術の前につけ、入院中はずっとその番 号が私自身を証明する唯一のものとなった。検査結果や情報管理もこの番号で行われる。そして徹底的に分業である。病棟ナ ースは基本的な仕事と検温や血圧のチェック、点滴の水分の交換などのみを行う。採血は病棟ナースはやらない。採血専門の ナースが各部屋を回って行う。後でふれるが、キーモセラピーにはキーモを取り扱う資格を持つオンコロジーナースという病 棟ナースとは違う専門ナースも存在する。検査などで別の病棟に行かねばならない場合、エスコートと呼ばれる搬送専門のチ ームの担当者が車椅子を押しながら同行する。日本の病院では一人の看護婦が担当の患者のすべてをしているように思われる 。ここではナースがやる仕事が徹底分業なので合理的で無駄がない。(そのために人件費が高くつき、医療費の高騰ともなっ ているようだが。。。)シーツをかえた手で何か別の処置をするような事はなく、衛生的でもある。各部屋には勿論、病棟内 のいたるところに洗面台があり、ナースたちが入室のたびごとにかかさず手洗いしている。毎朝一番にベッドを清潔にし、タ オルとパジャマを替え、病室、バスルームを丁寧に掃除するスタッフもいる。決して最新の病室ではないがとにかく清潔。日 本から看病にきてくれた姉と“ここでは院内感染なんて考えられないね”と感激。そして病院内の生活は基本的に自由である 。私はずっと個室であったので、家族が泊まり込んでもいいように折りたたみベッドがついていた。テレビも電話も勿論ある 。簡単な洗面用具などもついている。トイレもシャワーも部屋にあるのでちょっとした自分の部屋とすることができる。基本 的に面会時間が決められているが、家族はかまわない。病棟ナースでは自分だけを世話してもらうわけにはいかないので、も っともっと厚い看護を受けたければ有料でプライベートナースをつけている人もいた。食事は食べれるようになれば自分でメ ニューから選ぶ事ができる。小さな冷蔵庫もあるので外から好きなものを持ち込んでもかまわない。ベッドサイドには私自身 のファイルがかかっているのでいつでもみる事ができる。病棟ナースが記録していくものだ。さっきの体温は?血圧は?朝飲 んだ薬の名前はなんだっけ?等など。手術を執刀したパンター先生のオフィスは病院内にはないが先生はこのニューヨークホ スピタルのドクターである。診察は先生のオフィスで行うが、手術はこの病院で行われる。それぞれの先生が先生の都合にあ わせて回診している。レジデントと呼ばれる若手のドクター達が朝回診をしパンター先生とコミニケーションをとりながらや っている。もし何かわからないことがあればパンター先生のオフィスに電話を直接かければよい。先生からのインフォメーシ ョンはすべてレジデントにいっているので私自身のことも把握されている。心配ならば徹底的にわからないことを聞けばよい 。質問した事に対し納得いかなければもっときけばよい。ここでは遠慮していればそのままになる。自由であると同時に自分 の病状を一番よく知る患者本人が責任をもってアピールする必要があると実感した。週に2回程移動図書館もあった。各宗派 の神父さんもたずねてきた。(でもお坊さんは来なかった)ナースステーションはいつも笑いで明るい。病人といえどもごく 自然な普通の生活により近い環境である。たまに歩きついでに覗くと、“今日はあなたの御主人まだね”とかいっている。ア メリカの病院は本当に不思議なホテルだな。 体力には自信のあった私だが、手術後すっかり別人となってしまった。できものをとってしまえば楽になると思っていたわた しの考えは浅はかであった。ましてや、これからCANCERという病気が一体どういうものなのか?という問題もでてきてしまっ た。とは言ってもまずは体力を回復するという作業にとりかからなければ何も始まらず、大変な思いで退院を済ませた後、家 の中を少しずつ歩く事、鉄分を多く含む食品をとり造血すること、手術後20パウンド近く減ってしまった体重を元に戻して いく事に努める事となった。 退院してその晩、ベッドから起き上がれない。病院のベッドに比べて低いのと、病院のベットは背中の角度をかえることがで きた。まずは、ベッドをおりてからバスルームまでの移動がリハビリとなった。家に帰ってきてから初めて外を歩いた時には 眼がくらくらした。何日かかけて少しずつ歩く距離を1ブロック、2ブロック、と増やしていった。久しぶりになだらかな坂 道ブロックに差し掛かった時、登れないのだ。お腹の力が入らないので足があがらない。うっそー。休み休み歩きながらびっ くりしたものだ。



医療用医学英和辞典を購入し、再度パンター先生のオフィスに出向いた。退院後のチェックアップと、問題のCANCERに取り組 む今後の計画についての話し合いだった。手術後の経過はすべて良好で体力の回復も一般の女性とは比べ物にならないくらい のスピードらしい。しかしこれで終わりと言うわけにはゆかず、難題を前に今まで以上にシリアスな表情でパンター先生が説 明してくれた。入院中に私自身に説明してくれた経緯を改めて主人に向って説明する。“Do you think he understands?"と 私に確認した後、“今、現在の問題ではありません。しかしあなたのライフタイムの問題なのです。これは大変重要な事です 。この病気のスペシャリストでもあり、あなたの手術中にも立ち会ったニューヨークホスピタルの婦人がん専門のカプト先生 にアポイントをとり、早急にキーモセラピーを始めましょう。今回のこの状況でがん細胞を見つける事ができたのは奇跡的。 今の治療ならばかなり高い確率で治る事ができます。”一体、アメリカの医療ではどこからががんというのか?私のCANCERは どの状態なのか?キーモセラピーが化学療法と言う事は判ったが一体どうなるのか?そして最大の難題、これを日本の家族に どう説明すべきか?私自身がこの病気をきちんと理解しているのだろうか?しかし、今の状態では何もできない。とにかく、 カプト先生とアポイントメントを取り専門的にきちんとした見解を聞くしかない。あまりこの段階では状況も把握できないの でまずはスペシャリストに会ってその後だと言い聞かせていた。 1月29日。午後2時。初めてカプト先生のオフィスを訪ねた。かなり忙しい先生らしく、パンター先生の方からアポイント をとってもらいやっと取れたこの時間だった。随分と待たされたのを記憶している。この数週間で何度もドクターズオフィス と病院を行き来している私たちだったが、やはり初対面の先生と言う事もあってなんだか落ち着かない。カプトなんて面白い 名前だけど、ユダヤ系かな?でもやはり一人でいくのではなく、常に主人が同行してくれているので心強い。病院で御主人と 来ていない婦人科の患者は見当たらないのがこちらの常識だ。私達もそれにならった訳ではないがこうなってしまった以上、 夫婦そろって病気をしらなければいけない。先生のオフィスに入り初対面の挨拶をする。なんだかいかにも研究と手術だけを やってます、と言った感じの学者タイプの先生だ。いつも愛想がよく、楽しいジョークを忘れないパンター先生とは似ても似 つかない。“私はあなたのお腹の中の臓器をみましたから初対面ではありませんよ”なんていっている。ちょっとジョークを 言ったらしいが話し方のトーンも機械のように低く無表情で語るので全然おもしろくない。ぼそぼそと本題に入っていった。 私の手術レポートと生体検査したラボからのレポートを前に、単刀直入に始まった。摘出した腫瘍の種類と名前。悪性である こと。体内に溜まっていた水分およそ1リットルの検査結果。残された卵巣の組織の一部を採取し生体検査しがん細胞が発見 された事実。他の臓器への転移は見られなかった事。CANCERである。病気の度合いは4段階でステージ3である。ステージが 1又は2ならばキーモセラピーは行わないがステージ3なのでやらなければライフタイムを保証できない。しかし、キーモセ ラピーという化学療法によって治療すればこの種類のがんは治る確率が非常に高いと言う事。BEPと呼ばれる3種類の抗がん 剤を使用し、6回のサイクルで行う。3週間に1度およそ6日間の入院をしながら行う。私の現在のステージではこのBEPが かなり有効であり自信があると言っている。その際、抗がん剤使用に伴う副作用の説明もあった。代表的な副作用として、髪 の毛が抜ける事を淡々と言う。“全部ですか”とたずねると、イエス。思わず私はぐっと涙が溜まってきた。すると今まで無 表情だったカプト先生がふっと可哀相な表情をした。その表情を私も主人も見逃さなかった。あっこの先生はいい人なんだ、 大丈夫だ、信頼できる。“何か質問はありますか?”質問、と言われても全ての結果が細かく記されたレポートを前に説明さ れているのである。こうなったら治療をやるしかないなと半ば心は決まっていた。“キーモセラピーをやるならばやるべきタ イミングはあるのでしょうか?”と質問した。このような結果が出ている以上、やるならば早目がよいでしょう。"Sooner is better."“そのレポートは頂けるのでしょうか?”主人が口を開いた。“勿論です。コピーを渡しますので、読んで下さ い。今私の説明した事がかいてありますから。その上でよく考え、キーモセラピーを受けると用意ができたら私のナースに電 話をいれるように。勿論、キーモについての質問も彼女が答えます。いいですね。” かなり長い時間をかけて話しをしてくれた。なるべくミスアンダースタンドのないようにと思い、メモをしながら必死に聞き 取った。病気の状況を知るためには必要不可欠な手術レポートとラボのレポートがこんなに簡単に手に入るとは思ってもみな かった。しかしこれで一安心でもある。どんな手術が行われ、どのような経過を経て検査し、結論が出たのかということが患 者本人と家族が検討できるのである。こんなにフェアな事はない。アメリカでよかった。患者本位なのだ。何でも知りたがり やの私にはもしこれがなかったらずっと医者に不信感をも抱きかねない。先生の部屋を出、どっと疲れの出た私達。ちょっと トイレいってくるよ、という主人を待っていると、とてもすっきりしたファッションでさっそうと歩み寄ってくる女性がいる。 “ミセス木下ですね。私がビッキーです。パンター先生からきいています。大丈夫。安心してこの病気と闘いましょう。明日 1時ごろ電話をくださいね。いろいろ相談しましょう”ぎゅっと手を握ってくれた彼女がその後数ヶ月の間、精神的なケアを 中心に私達をいろいろと面倒みてくれるオンコロジーナースのビッキーだった。そのときタイミングよく彼女に会えたお陰で どんなに気持ちが明るくなった事か。彼女の存在を確認した事で安心すると同時にキーモをやろう、病気をやっつけてやろう と言う気持ちになれたのは事実である。 家へ持ち帰ったレポートを辞書を片手に読んでみた。かなりリアルである。手術中、麻酔をかけられて寝ている間に取り出し た悪いできものの大きさ、重さ、形、色、成分が細かく記されている。さらに細かく生体検査によって分析された後にでた結 論。なんとなく、他人事のような気がしながら一生懸命読んだ。これはもうどうしようもない。セカンドオピニョンをもらう かなんて考えもしなかった。事実はこのレポートにあるのだし、信頼できるパンター先生の手術中の適切な判断で、スペシャ リストであるカプト先生が立ち会いラボラトリーのドクター達の慎重な検査を経て、最終結論を出し決定された治療方針なの だから。やるしかない。 次の問題はこの事実をどのように日本の家族へ伝えるべきかということだった。姉は今から思うと、びっくりしてしまう展開 にかなり冷静に対処してくれていた。姉は駐在員家族として海外生活をしていた経験からか、遠く離れて生活している場合、 事実はきちんと隠さず説明しなければ逆に心配させる事になると言い、あんまりはっきり言わない方がいいのではないかと思 っていた私だが、順を追って明確に伝えようと言う事になった。この際の大役は主人ということになり私と姉とで細かい台本 を作り、電話であまり刺激的すぎずにやんわりとしゃべってくれた。上手な話の展開とさりげない表現で想像以上に心配かけ ることもなく今分かっている事実と病気に取り組む姿勢を話していた。到底、当事者の私にはできない事。感謝しています。 翌日、約束の午後1時にビッキーのオフィスへ電話を入れた。英語での日常の大抵な会話には苦労しない私だが、電話で病気 の話となるとさすがに緊張する。こういう場合は簡潔に判りやすく、そして疑問に思った事はすぐ質問する事。メモを確実に とり、最後にもう一度言葉にだしてお互い確認する事。この何週間で確実に身についた医療とむかいあう心得である。私は昨 日のカプト先生の話をもとに私自身でキーモセラピーを受ける心の準備ができたこと、治療のスケジュールを決める事と、治 療に伴う注意事項を副作用を含めて質問したいと申し出た。ビッキーはもし会話の途中でわからなくなったらその都度言って 下さい、と前置きした上で話を進めてくれた。私の治療はBEPというキーモセラピーで3種類の抗がん剤を使用してゆく。薬は ブリオマイシン、シスプラチン、V-P16の3種類。上腕の静脈に埋め込み式の点滴ラインをいれ3週間に1度入院し5日間の投 与を行う。ブリオマイシンに関しては毎週1回、外来でも行う。各薬の副作用は細かく説明され、食欲の低下、脱毛は勿論の こと、治療中には通常よりも白血球の数値がさがるため発熱、出血にとくに注意しなければならないこと。毎週、血液検査を しながら腫瘍マーカーの数値をもチェックしていく事も告げられた。現在の予定では6回のサイクルでやるが3回のサイクル を終了した段階で様子を見ると言う事になっているとも告げられた。先生とナースであるビッキーのスケジュールと、他の患 者さんのスケジュールも検討して私のキーモのスタートは次の週の火曜日2月4日。月曜日に入院しキーモに必要な知識をもう 一度マンツーマンでカウンセリングし同意署にサインをした上で、検査をし、点滴により体内の水分調整を始めていくという ことになった。最初にパンター先生のもとで腫瘍がみつかったのが1月6日。わずか1か月あまりの間に、手術、そして抗がん 剤投与の開始と言うめまぐるしいスピードである。でも私にはこの方がよかったと思っている。あまり余計なことを考える閑 がなくどんどんと病気をやっつけるためにすすむことができた。もしこれが日本だったらいろいろ時間を取りいらいらしただ ろう。ビッキーがキーモセラピーを受けるにあたり一番大切な心の準備を声のトーンをはっきりとして何度も繰り返した事が ある。“副作用で、自分が想像するよりも驚いてしまうくらい気分も悪くなるし、食欲はなくなるので力も出ない。個人差が あるが人によってはベッドから起き上がれない場合もある。でもそれは病気のせいではなく、薬がそうさせているので絶対に 悲観しない事。治るために薬と闘うことを忘れずに”と。最後に、薬を始める前にかつらを作る事を薦めてくれた。ごっそり と髪が抜けてしまう事は認識していたがなぜかかつらを手配することまでは考えていなかったので正直いって驚いてしまった 。キーモセラピーを受けるがん患者を対象にした専門店が病院の近く75丁目にあると言うのだ。“アポイントをとっていっ てみなさい、きっと安心すると思うわよ。”電話番号を書き留め受話器を置くと無性に切なくなってきた。そうか髪の毛抜け ちゃうのか。やだなー。はげちゃうんだよ。おねえちゃん、やだよー。どうしてだよー。えーい、もう泣いちゃえ。20分間程 いじけただろうか。“泣いててもしょうがないよな。よしかつらを作りにいこう”主人の勤務先に電話をいれ“かつら作りに いくからつきあって!”と明るくいくと“そう来るのを待ってたぞ!”病気の期間中、後にも先にも、涙が出たのはこの20 分間のみ。コーチのようなビッキーと私達夫婦、明るさと体育会系ののりで薬と闘う事となった。



オンコロジーナース、ビッキーから紹介されたその店のオーナーも以前がんの患者であったという。店の名前は“Underneath it all”と言う。最初はどんな意味かと思っていたその名前だが訪ねてみてゴキゲンになった。外見は何の店だかまったく 判らないそのドアを開けると、店内は明るく素敵な帽子やスカーフ、オシャレな水着や下着がセンスよく並んでいる。ちょっ と中へ入ったところにサロンがあり数種類のカラーとスタイルの違うウィグ(かつら)が並んでいる。全てのがんの治療に際 しておきる様々な副作用に対してのケアがここでできるのである。暗くてシリアスな感じは受けず、むしろ逆転の発想。女性 であるのだから明るく、美しく、おしゃれに治療をしましょうと言ったコンセプトだ。主人と姉とで一緒にウィグを選び、ス タイリストがまだ全く毛が抜けていない私にかぶせ、見事にカットしていってくれた。あっという間に、まったく違和感のな い素敵な私のウィグができあがった。適当にボリュームがありなかなかのものである。帽子やその他のちょっとしたものも購 入しすっかりるんるんとなった。キーモセラピーが始まる前にかつらを手配したことはグッドアイデアであった。女性ならば 一番ショックをうけるであろうごっそりと脱毛した時の心の準備が完全にできあがる。この帽子もおしゃれだよね、あのスカ ーフはこれにも合うし。この機会にちょっとちがったファッションでイメージチェンジといきますか。アメリカはさすがにな んでも明るくプラス思考なのだ。このお店は治療している患者対象だが、まったく医療用といったイメージは感じられなかっ たのに驚きと感激を覚えた。その後もこの店のスタッフが副作用によっておきた肌荒れや口内炎といった問題に私が電話で問 い合わせると、実にフレンドリーにそして親切にアドバイスしてくれたのには感動した。 ウィグ(かつら)も用意し、キーモセラピーに関しての知識もおおまかながら理解し気持ちもすっかり用意のできた入院前日 の午後、同じテニスクラブの友人でフロリダに住むファ二ング夫妻から電話があった。多くのテニスの仲間達が私の病気の事 を心配していろいろな仲間に連絡してくれたようだった。リタイアして今はフロリダに住むかれらの元へも連絡がはいりすぐ に私達にコンタクトをとってくれたのだ。奥さんのパットも5年前に卵巣がんと診断され手術、キーモを受け、克服したのだ った。彼女は自分の経験からすべてを細かく語ってくれた。ドクターやナースからの情報の他に実際に同じ治療を受けた経験 者からの情報とアドバイスは大変貴重なもので、気持ちの持ち方次第で副作用の程度も違うのだと励ましてくれた。怖がらず 、むかっていくこと。自分自身の気持ちを第一に考えて“グッドラック”と。ご主人のチャーリーも看病する主人への心配り もしてくれた。この後、病気の治療期間中、テニスクラブの仲間達からの連日の電話やカードでのお見舞いメッセージには本 当に感謝した。私達も病状を包み隠さず友人達に打ち明けたため、誰もが親身になって励ましてくれた。入院している時には 、仕事帰りにちょっと立ち寄ってくれる人もいたし、電話を毎日欠かさず入れてきてくれる人。時々、主人をテニスに誘って くれて気分転換を薦めてくれる人。キーモのスケジュールにあわせ私達を食事に引っ張り出してくれる人。誰もが自然に“調 子はどう?グッドラック”と声をかけてくれる。がんだ、抗がん剤治療だ、という事を聞くとなんだか変な想像とはっきりし ない態度で接してしまう日本人の知人達とは全く違い、なんでも力になるよ!と見舞ってくれたテニスを通じて巡り合えた人 々に助けられた。そして彼らの多くがCANCERという病気に対してかなり知識が深く、キーモセラピーに対しての認識度が高い 事にも驚いた。 第一回めのキーモセラピーの開始前日、2月4日。ビッキーとマンツーマンのカウンセリングを行い、最終的に治療方法と副 作用、日常の心得などを確認した。“Chemotherapy and you”という小冊子が渡された。内容はごくシンプルにキーモに対し ての疑問などがわかりやすくそして具体的に書かれている。食欲のない時の調理方法や栄養の取り方などを記した本も渡され た。すべての点についてリビューの後、同意書にサインをする。いよいよキーモのスタートとなった。 オンコロジーナースのビッキーは毎朝11時頃、私の薬の袋をもって病室にさっそうと現れる。いつもおしゃれをしていてセン スのいいファッションで明るく病棟内を歩く。白衣などは着ていない。病棟ナースとは違いキーモの患者のみを担当している 。薬の袋を点滴棒にとりつけセットしていくのが毎朝の仕事だ。常に明るく、私の手を握りながらいろいろな話をしていく。 患者とスキンシップをとりながら状況を把握していくのだろう。 私は予定どうり、勉強したとうりの副作用が襲ってきた。まずにおいに敏感になり、口のなかは鉄の味、同時に吐き気があり 食欲は減る。まあ想像していたとうりで“こんなもんかな”と思っていたほどの余裕があった。もともと普通の人より体力が あったお陰か、気持ちは悪いもののボーっとしているよりは気分が紛れると思い、病棟内の廊下を歩きまわれるほどだった。 パンター先生とカプト先生が必ず毎日一回回診に来るのだが、私が常に歩きまわっているので驚き、驚異的な体力だといわれ るくらい元気だった。主人は“おまえは、このためにテニスをやっていたんだ。鍛えた体力と精神力を本当に試すために病気 になったんだな”とまで言っていた。最初のキーモからちょうど10日ほど経ち、シャワーを浴びていると髪の毛があれよあ れよという間に抜けていった。バスタブの排水溝を見ると真っ黒になっている。あらー、詰まっちゃう!ごっそり抜けたその 時は抜けたことよりも排水のつまりを防ぐ事に必死だった。“髪の毛がぬけます”といわれた時にはあんなにもショックだっ たのに実際抜けてしまうと案外恐いものがなくなったような、変に気持ちが座っている自分に気が付き、選手時代にこのぐら いタフだったらよかったのに、と独り言。その後も勿論髪の毛はどんどんぬけていき、まゆげ、まつげまでもが抜けていった。 家に帰っている間は外出は少なくしていたが、外来でのキーモをうけたり、病院にチェックアップに行く時は極力おしゃれを してみる ことにした。ウィグをつけ、帽子やスカーフサングラスなどといった小物でアクセントをつける。眉毛もまつげも薄くなって しまったのではっきりメークもする。今までとちょっと違う積極的ファッションで病気をプラスにしていこうと心がけた。 アメリカでのキーモセラピーは在宅でも外来でもできるという。通常の仕事を休む事なくキーモを受けている人もいる。私は 入院での薬注入と週に一度の外来治療をうけた。外来のキーモ病棟には出勤途中らしきビジネスマンの姿もある。そこは明る く、抗がん剤治療を受けるところというよりも、むしろちょっとしたサロン。点滴棒の横にはオットマン式のイスがあり足を なげだしリラックスしてテレビでもみながらキーモをうける。食事や飲み物をちょっと用意ができるような小さなキッチンス ペースまである。私の場合は2時間ほどだったが、1日中そこにいる人もいるのでできるだけカンファタブルに過ごせるよう になっているのだ。まるで歯医者にでも来るような気軽さでキーモを受けに来ている多くの患者とその家族に驚くと共に、明 るくごく自然体で提供している医療に感心もした。 キーモセラピーの多くの患者にはPICC ライン(ピックラインと呼ぶ)と呼ばれる、上腕部の静脈から極細のチューブを大動脈 までいれる埋め込み式点滴ラインを使って点滴治療を行う。何回にもわたるサイクルでの長期治療となるので、数ヶ月このP ICCラインが私の大事な身体の一部分となった。入院中はPICCチームと呼ばれるスタッフが手入れをしてくれるが、在宅中は 自分で手入れをしなければならない。毎日の消毒をきちんと行い、感染症を防止しなければ発熱などの大きな原因となるから である。私は病院のソーシャルワーカーからホームケア(在宅看護)の会社を手配してもらった。家庭でのメインテナンスの為 の用具と薬品をそろえ、患者自身や家族が簡単にそして安全にケアすることができる。週に一度、ナースが訪問し、正しいケ アが行われているかが確認されPICCラインのコンデションチェックを行う。身体の調子は勿論、副作用の程度なども記録され 、ドクターへ連絡が行くようになっていた。用具や薬品は家まで宅配され、わざわざ買いに出かける必要はない。24時間の 緊急対策もされており、いつでも担当のナースと連絡が取れるようになっていた。主治医であるパンター先生、オンコロジー 担当のカプト先生の連携は当然のことだが、そのドクター達とドクターズオフィスのスタッフ、オンコロジーナースであるビ ッキー、そしてホームケアのナースの連携なしでは成り立たないチームワークによる治療である。



白血球の急激な低下、のどや鼻の痛み、吐き気、脱毛、手足の指のしびれやむくみ、つめや歯の変色、口内炎、歯痛、肌荒れ 、呼吸困難等など。体力的には余力を残していたもののあたりまえな副作用は人並みにあったようである。数々のハプニング はあったものの3回のサイクルを終え治療が一段落。腫瘍マーカーの数値はぐんと下がったということで様子をみることとな った。その間もビッキーは電話で私の様子をうかがってくれる。有り難い事だった。週に一度の血液検査と、超音波診断、CT スキャンの結果によりセカンドサージュリーの必要もなく治療を終える事となった。どんながん専門医よりも慎重派のドクタ ーとして知られるカプト先生がありとあらゆる検査の結果を元に出した結論。ついに“がん細胞は見られません。”5月23 日。待ちに待っていたPICCラインをはずし、日本から来ていた母がお赤飯をたいてくれた。すっかりニューヨークの街は初夏 となっていた。 “どうして卵巣がんになってしまったのか?”不思議とこのことについて考えることはなかった。病気には発病する原因があ るはずであるが今だ追求していない。遺伝、食生活、ストレスなど他人はいろいろ言うが私達夫婦は“なるべくしてなった” 病気であるととらえている。全く信仰心のない私達であるが、神様が与えてくれた試練なのさ、と受け止めた。私の場合は、 すべてのタイミングが良い方向にむかって働いていたと思っている。あの時あの状態で手術が行われなければがん細胞を奇跡 的に見つける事はできなかったかもしれない。不幸中の幸い。ニューヨークに住んでいる間だからこそいろいろな人とのつな がりを通じて信頼できる先生をはじめとする医療スタッフと巡り合える事ができた。少しでも、何かが違っていたらどうなっ ていたかわからない。 3週間に一度、1ヶ月に1度、3ヶ月に一度、と少しずつチェックアップと腫瘍マーカーの数値を検査する間隔が開き、今は やっと4ヶ月に一度となった。これからも慎重にその後のケアは自分自身が責任をもってやっていかなければいけない。もし 今後、何かが起きてもあまり驚く事なく気持ちは用意されていると思っている。治療が終わって一年が過ぎた昨年の春、“あ の時見つけていなかったらあなたは今ここにいなかったかもしれません。自分自身の強運に感謝しなさい。”とカプト先生と パンター先生からいわれた時には冷や汗が出たが、現在、私はすっかり健康を取り戻し、2年かかったが体重は手術前の状態 までもどった。まずは健康である事に感謝し、健康管理を第一の仕事とする。精神的にゆとりをもち、喜びを感じる自分を大 切にしている。誰でもない、私は私自身の健康と病気をマネージするCEO(最高責任者)なのだと実感している。



私の受けた医療はアメリカではごく基本的ながんの治療であるといって間違いないだろう。決して最先端の特別な治療ではな い。ニューヨークホスピタルはコーネル大学の病院でアメリカの医療機関としてのレベルもごく普通の総合病院であると思う 。HMOやPPOなどといったごく普通の一般的な医療保険に加入していればほとんどがカバーされる範囲内での治療でもある。私 達の場合は残念ながら適用される医療保険に加入していなかったので膨大な医療費となってしまったが、アメリカ国民の多く が加入している一般的な医療保険や低所得者や高齢者対象の医療保険があれば自己負担は少ないはずだ。ホームケア(在宅看 護)やかつら等も保険対象となるのには驚いた。日本ではアメリカの医療費は莫大といわれているが、がんと診断された際で も一般的な治療を行った場合の医療保険加入者の負担額が果たして本当に日本の医療費と差があるかどうかはわからない。そ して果たして同じレベルの治療が受けられるのだろうか? 3年前、私の父が日本で有名なある私立大学病院に長期に渡って入院、数回の手術をおこなったが、医者のレベルはともかく として、患者をとりまく医療システムや環境設備、機器、術後のケアや回復のスピードなどは私の入院したニューヨークホス ピタルと比べると残念ながら同じ医療機関とは言い難い。入院期間はとてつもなく長く、何もしないでベッドにいるだけの日 数が多いように感じた。手術前にインフォームドコンセントらしき説明を家族に行われたが、病気の違いはあるもののアメリ カの医療現場で患者自身の私と家族が体験したこの経験とは比べ物にはならないほどお粗末なものといわざるを負えない。ナ ースはあまりにも忙しく、ハートを感じるとまでは程遠かった気がした。 様々な意見はあるだろうが、私の受けたアメリカの医療はまず患者主体、そして自然体の医療、クールだが肝心なところはず っと暖かかだった。 ずっとこの体験を記録に残しておこうと思いながらなかなか書き出せずにいたが、2年たちすっかり健 康に自信がついた事もあり“病気ノート”として書いてみた。まだまだ書き足りないところもあるが、この私の体験が何かの 役に立てれば幸いと思っている。 1999年1月25日。
作者プロフィール

木下明美 (旧姓 西谷にしや)
1965年3月11日生まれ 現在34歳
10歳からテニスを始め、すっかりテニスの虜になりプロテニスプレーヤーとして世界中を転戦。
グランドスラム大会を中心に1年中がテニスなしでは成り立たない毎日を送る。 全日本選手権ダブルス、ミックスのタイトル をはじめとして国内外でプレー。 92年の全日本選手権を最後に現役を引退し、結婚しニューヨークに居を移す。97年に病気を体験して以来、現在はニューヨー ク駐在の邦人のお子さんを中心にテニスを教えている。 マンハッタンで主人と二人暮らし。
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