1章「オンライン闘病記:僕らの闘いの日々」

1 まえがき:楽しい闘病を

 「白血病です。奥さんが3年後に生きているかどうか、五分五分です」。
 忘れもしない96年2月23日。妻が検査室にいる間に、お医者さんにそう告げられたときの衝撃を、今でも鮮明に思い出すことができる。妻が検査室から出てくるまで、待合い室で、人の目をはばかることなく、さめざめと泣いた。ところが不思議なことに、泣きながら現実感がなかった。
 自分の家族が大病をするとは考えたこともなかった。ガンについて、ましてや白血病や骨髄移植についての知識はゼロだった。闘病生活がどんなものになるか、想像もつかなかった。
 闘病について「ずぶの素人(しろうと)」だった。そして、今。我ながら、いっぱしの知識を得て、「セミプロ化」したと思う。
 僕たちだけではなかろう。誰もが、似たような道のりを歩むのだと思う。
 振り返れば、試行錯誤の連続だった。「もっと早く知っておけば」ということが多い。白血病でもいろんな種類があり、症状と経過は個人差がある。ガン全般ではなおさらである。だが、このプロセスはあらゆるガン患者、難病患者とその家族に共通することだろう。
 もっと近道はないものか。ここに、僕たちがやってきたことと、やっておけば良かったと思うことを整理しておきたい。
 根性や信念だけではガンの闘病は乗り切れない。たいていの場合、「長期戦」になる。また、それが「情報戦」であり、家族や医療チームとの「共同作業」である側面が強いからだ。
 この3つの性格の闘病を支えられるのは「楽しい闘病」である。こう表現すると、語弊があるかも知れない。でも「闘病を楽しもう」と敢えて言いたい。
 奇妙なことに闘病していて、充実感を覚えることがある。それは、お医者さんに十分な説明を受けて「知り得る限りのことは知った」と思ったとき。医療スタッフ、患者仲間などと、心が通じ合ったと感じたときである。

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 逆に不快を感じることもある。知りたいことを説明してもらえないとき、医療チームとの間に溝を感じたとき、自分が正当な治療を受けているか不安なとき、話し相手がいないとき。介護者がいらいらするだけでなく、患者の肉体的苦痛も増える。
 人間というのは「状況を理解したがる」「自分を理解してもらいたがる」生き物だとつくづく思う。介護者からはそうそう見えても、患者にとってはそうではないと異論があるかも知れない。患者に必要なのは、理知的理解でなく、痛みと感情を分かち合うことだ、と。それは、もっともだ。でも、理解の大切さはやっぱり患者本人にも当てはまるはずだ。
 妻をみていていくつか思い当たる点があった。ガン治療には激しい痛みや吐き気などが付き物である。あるとき、妻のこうした症状がある程度は、上のような喜びでコントロールできることに気がついた。
 妻の視野には抗ガン剤の副作用で陰がある。また、厳しい治療の後では、激しい疲労感に襲われて、本や新聞さえ読めなくなる。しかしそんなときでも、パソコン通信上の患者の発言集は、長時間平気で読めることがあった。好きな友人が病室に訪ねてきてくれたとき、偉い先生が病室まで訪ねて来てやさしい言葉をかけてくださったときにも同じことが起こった。その前後は痛みや吐き気を比較的訴えない。
 お医者さんとの治療方針会議(コンファランス)で、厳しい見通しを聞かされても、十分な説明を受け、かつ治癒可能性に焦点をおいて適切に励ませさえすれば、いつまでもショックが長引くようなことはない。どうやら、患者に闘病の主体になっていると感じさせることが重要なのだ。
 中でも大切だと思うのは次の3つだ−−。

○「患者が主役」。
お医者さんにとって、患者はお客様。患者と医師団は同じ目的に向かって進むチーム。医師・病院にも対等意識で臆することなく接しよう。

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○「闘病を楽しもう」。
できるだけ病気について、病院について知ろう。患者同士で話そう。知識欲で闘病意欲をかきたてよう。「理解そのものに、治癒力がある」と信じる。

○介護者は「介護疲れを介護で取ろう」。
多少の休息は悩みと迷いの時間になるだけで、助けにならない。介護の合間を縫って、日記を付け、調べものをし、頭を整理しよう。さらに人と話をしよう。そして「超・闘病法」の好循環を生もう。そうでなければ寝てしまおう。

 「がんと闘うな」。唐突にそう言われても、患者は困るのである。代替案を示さずに、そう言われても、苦しむだけである。あるいは「脳内革命」のお題目を重ねても、気の持ち方がすぐに変わるわけでも、ガンが消失するわけではない。むしろ、正しい闘病のための日々の作業をさぼる言い訳になりかねない。ここでは「超・闘病法」というスタイルを提示したい。
 ガンとは闘うべきだ。言うまでもないが、問題はその闘い方なのである。
 妻の発病前に、僕は4年あまり海外駐在ジャーナリストとして働いてきた。僕たちの闘病スタイルに、仕事の経験が少しは役立った点は否定できない。「調べる、質問する、記録する」ことが比較的抵抗なくできたことがそれだ。でも、ジャーナリストの特権は一度も使ったことがない。米国、日本各地の有名医師に直接電話やファックスで質問もしたが、職業を名乗ったことも、聞かれたこともない。それでも、どの先生も丁重に答えてくださった。聞きたいことを直接聞く。誰にだってやればできることばかりだ。

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 「米国だからできた。日本の風土では無理」という反応もあろう。しかし、「インフォームド・コンセント」「患者の情報武装」は日本でも急速な勢いで進んでいる。日本も間もなく変わるだろう。すでに日本でも「超・闘病法」を実践している人をたくさん知っている。
 道具としてはインターネットがとても役にたった。インターネットで検索すれば、すぐにお医者さんに近いレベルの知識を得ることができる。勉強していることが分かれば、確実にお医者さんの態度は変わる。インターネットを介して、患者同士で質問や知識を交換し、かけがえのない仲間を得ることもできた。
 かねがね「インターネット」に対する世間の認識には誤解が少なからずあると思う。「娯楽でサーフ(あちこち漂う)するもの」「ヴァーチャル(架空上)で人間の触れ合いがない」といった見方である。しかし、僕らにとってインターネットとは、文字どおり、生死を分けるかも知れない実用情報を得る場所である。ここで知り合った人々との人間関係はリアルであり、長い付き合いになるのは確実だ。しかも、実際に会うこともある。
 この本が「インターネット実用例」のひとつを示すことにもなれば、幸いである。誰にでもできる活用術をできるだけ具体的に書くことに努めたい。もっとも、パソコンなしでも、これに近いことはできるのでご心配なく。
 もちろん、知識と情報があったとしても、闘病で勝てるとは限らない。しかし闘病に悔いがあってはならない。「超・闘病法」からしか、これからの闘病は始まらない。そう確信する。
 ひとつだけ、付け加えておきたい。言うまでもないが、「超・闘病法」には患者への「完全告知」が前提になる。

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2「ガン告知。すべての始まり」

◇告知前と告知後◇
 96年2月21日。ニューヨーク・マンハッタンのオフィスで仕事をしていると、わが家のかかりつけの日本人開業医のE先生から電話があった。ここ数日、妻が体調を崩して左上腕の激痛に襲われ、今日お医者さんに行くことになっているのは承知していた。E先生は、「奥様のことです。ちょっと悪いようです。すぐ、来ていただけますか」と言った。「承知しました」。電話を切って「いったいこれは何だろう」と思う。映画の1シーンじゃないんだし、冗談でもあるまい。お医者さんがこんなセリフの電話をしてくるというのは、どういう時だろう。深呼吸をした。「悪いことに違いない。しかも相当に・・・」。タクシーでE先生のところに駆けつける間、頭の中では、恐ろしい想像と「なあに大した話じゃないさ」と打ち消す気持ちが交錯した。
 妻は自宅に帰されたあとだった。先生は単刀直入に「白血病だと思います」と言った。
 白・血・病!?
 白血病がガンの一種であることさえ知らなかった。先生はマンハッタンにある「スローン・ケッタリングがん研究所」の専門医の名前をあげ、明日、すぐそこに行くように告げた。
 ガ・ン・病・院!!
 頭の中が真っ白になった。しばらくして、われながら馬鹿げた質問をした。「先生、妻に何て言えばいいのですか。いったいどうやったら、そんなところに連れていけるのでしょう」。
 E先生は「その通り言うしかありません。無理ならば白血病とは告げなくとも、絶対、明日スローンに行かないと駄目ですよ」。
 とてもそんな言葉を自分の口から出せるとは思えなかった。妻が白血病の告知に耐えられるとも思わなかった。錯乱するか、自棄になってしまうか。
 このとき、妻がE先生のところに電話してきた。先生には、「いま僕がここにいるのは教えないで下さい」と頼んだ。受話器からしきりに痛みを訴える妻の声が漏れ聞こえる。
 E先生の話を聞き終わっても、「まだ決まったわけではない。何かの間違いということもあるし」と、思った。妻には、家に帰ってとにかく「血液検査で異常が見つかり、精密検査が必要」と伝えた。その夜、妻は左上腕の骨痛をとても痛がった。「こんなにひどいの絶対おかしい。私、死ぬのかな」と悲観的なことを言ったり、「きっと何でもないわ。とにかく早く病院にいって痛みを止めてもらおう」と楽観的な見通しを言ったり。僕はただ腕をさすってやるしかできなかった。いったいこれからどうなるのだろう。

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 翌朝、とくかく家を出て妻をタクシーに押し込んだ。「がん研究所」に行くとは説明していなかった。ただ「スローン・ケッタリング」という病院だと。車を降りると、入り口に大きく「がん研究所」とある。無神経だなと思った。僕は体でそれを隠すようにして、中に入った。スローン・ケッタリングはしばしば全米1あるいは世界1のガン専門病院と称されるところである。研究と臨床を密接に組み合わせた先端ガン病院モデルを最初に確立した病院だ。
 その後は、前書きで書いた通り。妻が検査中に主治医のガブリラブ先生が、まず私に告知した。また私は馬鹿なことを質問した。「妻には何と説明しますか」。やっぱり妻が告知に耐えられるとは思わなかったのだ。
 「すべてありのままに話します。ただし、治癒率などの数字は今は話す必要はないでしょう」。ガブリラブ先生はきっぱりと言い切る。小柄な女医のガブリラブ先生がとても立派に見えた。
 妻が検査室から出てきて、小さな部屋に移り、いやおうなく本人告知が始まった。妻は先生の英語をだいたい理解したが「ルーケミア」なんて言葉は初耳だ。同席してくれた日本人研究員が「白血病です」と訳す。
 ガブリラブ先生は妻に手を添えながら、やさしく、でも信念に満ちて一気にこう話した。「白血病です。今ではかなり治る病気です。治せると思いますよ。原因は分かりません。あなたが何か悪いことをしたからでも、夫婦の意見が一致しなかったからでもありません。泣きたかったら、いくらでもお泣きなさい。自然なことです。でも、治すためには一刻でも早く治療を開始した方がいいのです。さあ、このまま入院しましょう」。
 手際のよさに舌をまいた。真剣だが深刻ではない。冗談さえ交える。告知しながら、患者にやる気を起こさせる。
 妻の反応にも驚いた。少し泣いた。でも取り乱しはしなかった。「分かった。治るのね。子供のためにきっと頑張って治すわ」。逞しさに驚いた。僕だけが状況に着いていけず、取り残されたように感じた。
 ぼやぼやしている暇はない。入院手続きをして、身の回りのものを自宅に取りに行き、子供を学校に迎えに行って・・・。やることはいっぱいある。
 恐れていた「告知」は終わりではなかった。それは、始まりであり、闘いの前提に過ぎなかった。

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3「患者が主役。スローン・ケッタリング病院に入院」

◇カルチャー・ショック◇
 入院病棟に回された。看護婦さんはまず「なぜ私が、という気持ちは当然。怒っても泣いてもいいのよ」「何でも聞いて下さいね」と言う。ベッドの上にとなりに腰掛けて、手を握ったり肩をさすったりしながら、ゆっくりとしゃべる。
 意外だったと同時にありがたかったのは、面会が24時間自由だったことだ。海外ぐらしで他に家族や親戚もいない。仕事、看病、子供の世話のひとり3役をこなすには面会時間が限られていたら、うまく都合がつけられない。お見舞いや差し入れさえ、ろくにできなかっただろう。それにまず心配したのは、妻が入院して、妻と6歳の一人息子が引き離されて、ふたりが精神的にもつだろうか、ということだった。
 これは杞憂だった。子供は自由に病室に入れた。その日、学校に子供を迎えに行くと、「ママが病気でしばらく入院することになった」と説明して、病院に連れていった。子供は好奇心の固まりで病院を端から検査し、病室ではベッドに乗りたがった。僕は「ダメ。下りなさい」と叱りつけようとしたが、看護婦さんは「全然かまわないのよ」と言う。看護婦さんは、妻の血圧を測ったあと子供のも測ってみせる。子供は大喜びだ。いろんな計測器を見せたり、学校のことを聞いたり、あっという間に子供の心をつかまえる。子供は妻といっしょにベッドに寝ころんで妻と話をしたり、本を読んだり、ふざけたりするのが好きだった。子供が点滴ラインを引っ張らないかとやきもきしているのは僕だけで、看護婦さんもお医者さんも、気にもしない。これが当たり前のようだ。妻の病院食が来ると、子供は手を出したがる。それでも、しかられない。「どう、おいしい?」と看護婦さんは話題の端緒にする。子供は宿題も病室でやることが多くなった。
 学童期の子供を2人もつ働くママ、ガブリラブ先生は「子供には、できるだけこれまでと同じ生活をさせるのがいいと思います」と言った。学校には休ませずに行かせ、なるべく母親とこれまでと同じように長時間話させるように努めた。
 (これは基本的に骨髄移植中も同じ。患者は隔離されず面会は自由だった。無菌室さえ使わない。ただし、食事に触れることと、子供と肌が直接触れることは禁じられた)
 こうしなさい。ああしなさい。「そんなことしたら駄目です」。ニューヨークのスローン・ケッタリングでも後に転院した先のシアトルのフレッド・ハッチンソンでも、病院でそういう言い方をされた記憶がない。「あなたたちは十分苦しんでいる。少しでも楽にして下さい」。そんな配慮を感じた。

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 考えてみれば、こういう「患者主義」をとっても医療行為に支障があるわけではない。医療スタッフにとっては多少は余計な手間がかかるかも知れないが、患者の闘病意欲が高まって、かつ患者が治療に協力的になれば、むしろメリットがある。
 お医者さんも看護婦さんも気さくだ。廊下ですれ違っても、必ず「ハーイ、ケン」と声をかけてくれる。看護婦さんは私服(移植病棟でも!)で、みんな思い思いの服装をしている。忙しいそうだが暇を見つけては、話し相手になってくれる。忙中閑あり、だ。
 入院してまず最初に「患者の権利の章典」の説明を受けた。

 1、患者は思いやりがあり礼儀正しいケアを受ける権利がある。

 1、患者は、患者が理解できるような言葉使いで、医師から自分の病名、 治療法や予後についての情報を説明してもらう権利がある。

 1、患者は、自分の診察にまつわるすべてのプライバシーに関して万全の 配慮を受ける権利がある。

 1、患者は、病院が可能な範囲で適切な対応をすべきであると、期待する 権利がある。

 そんな項目がたくさんならんでいた。
 これは新鮮だった。さらには「患者のための代弁者」という聞き慣れないタイトルの人が来て、「何でも困ったことや質問があれば、すぐ呼んで下さい」と電話番号をおいていく。病院の引き出しには常にこの「権利の章典」が入れてある。病院の受付にこのパンフレットが積んであり、病院の玄関わきの壁にはその文面が彫り込んであることに後で気づいた。こうしたお題目は形式に流れたり、空洞化しがちだが、病院スタッフの態度から、米国のがん病棟ではこの精神がかなり根付いている印象を受けた。
 そう言えば、スローン・ケッタリング病院での初日。診察の待合い室はこじんまり、かつ、ゆったりとしていて、数人の患者が待っているだけだった。趣味のよい絵が掛かっていて、ショパンのピアノ曲が流れ、銀行の上顧客向けの特別待合い室といった感じ。不安な気持ちの中で、一瞬、ふと落ちつきを覚えたのを記憶している。
 「お客さん扱いされている」「とても大切にされている」「患者が王様で主役なんだな」。そう思った。妻と「アメリカの底力だね」と言い合った。米国に4年半住んで米国の素晴らしい点も、ひどい点もいろいろ見た。病院の仕組みは、もっとも素晴らしいことのひとつだと思う。

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4「インフォームド・コンセント:情報公開と自己責任」

◇質問する。調べる◇
入院初日。入院病棟の妻の今月の担当医、ワイス先生が部下を引き連れてやってきた。これが「インフォームド・コンセント(同意の上の治療)」との初遭遇だった。
 相撲取りのような体躯で、いつも汗をかいているワイス先生は、米国で「ベッド・サイド・マナー」と呼ばれる患者への接し方がとてもうまく、そのちょっとコミカルなしぐさと相まって、とても患者を安心させるのがうまい。
 治療計画書(プロトコル)の概要を説明された。「超強力化学療法」コースで、4回の抗ガン剤治療がセットになっている。3回目のあとに抹消血幹細胞(血流の中にある血液細胞の幼細胞。これからあらゆる種類の血液細胞が育ってくる)を集め、4回の抗ガン剤治療のあと再発した場合はこれを移植する(自家骨髄細胞)というもの。抗ガン剤の副作用などについても説明があった。
 とりあえず「ああ、そうですか」という他なかった。こんなことをわざわざ説明するのだから、きっと最先端のことをやってくれるのだろうと期待した。一方で、モルモットにされるのかもしれないという懸念も頭をよぎった。
 「質問がありますか。分からないことがあれば、いつでも聞いて下さい。明日から治療に入りますから、明日までに、この書類を良く読んで署名をして提出して下さい」。そう言われても困る。第一、このプロトコルを評価する能力がわれわれいは全くない。
 あんたが決めなさいと言われる。患者が主体だが、自己責任も問われる。しかし患者には当事者能力がない。
 このとき、日本人医師の峯石先生が助けてくれた。彼はスローン・ケッタリングの血液内科の別のチームにいたが、日本人患者が入院したと聞きつけて、ボランティア精神で来てくれたのだ。この後、峯石先生はわれわれの重要な情報源かつ精神的支えであり、医療チームとの橋渡し役の側面ももった。

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峯石先生がウィスコンシン州立大学付属病院の骨髄移植チームの助教授に転進し、我々がシアトルのフレッド・ハッチンソンに骨髄移植に出かけたあとも、ずっとこれは続いた。峯石先生はTの「影の主治医」であった。専門用語や医療知識が十分でない我々には、彼なしでは「超・闘病法」の発想は不可能だったろう。
 この「超強力化学療法」が今ではかなり標準的なプロトコルであること。なかでも1、2回目の化学療法はありきたりのもの。途中でコースを変えることはいくらでも可能。峯石先生はそうした要点を時間をかけて、あらゆる点から説明してくれた。おおまかの疑問は解決がつき、翌日、ワイス先生への質問はごくごく常識的かつ本質的なことに絞られた。
 「これまで何人が参加しましたか」「どれだけの方が生存していますか」。前者はワイス先生がその場で教えてくれた。後者は「把握していないので、このプロトコルの主任であるバーマン先生にきいてみましょう」と言われた。「そんな重要なことが頭に入っていないのか。どの患者でも聞きたくなる質問だろうに。でも正直で率直だな」と感じた。この答えはのちにバーマン先生に直接会ってきくことになる。
 米国では医師は患者の質問にできるだけ答える。少なくともその姿勢は見せる。自分で答えられないときは、知っている人から聞いてきて伝えるか、その人を紹介するのが当然になっている。
 こうして僕の「質問をする。調べる」という道が始まった。米国のお医者さんたちにも、「けっこううるさい奴だ」と思われていたようだ。「君はなかなかしつこくて、特に数字にこだわるね」などと、冗談めかしてイヤミを言われたこともある。でも、米国ではこのレベルはごまんといるし、数段上の猛者がいっぱいいる。3章で詳しく書くが、英語の世界では、やる気さえあれば、集められる情報の量と深さは無限に近いからだ。

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5「ガンとの闘いは情報戦」

◇柔軟な対応と一貫性の確保◇
 ガンは「情報の病気」だ。個体の設計図である遺伝子に何らかのきっかけで傷がついて、細胞が異常増殖してしまう。遺伝子のソフトウエアコードにバグが発生してソフトが暴走するわけだ(がんの基本的な理解の仕方については、5章の「14歳の甥たちへの手紙」参照)。
 ガンとの闘いもまた「情報戦」にならざるを得ない。同じ情報と言っても、ちょっと意味のレベルが違うため、言葉の遊びと思われるかも知れない。だが、これから見る「情報の病気」であるガンの特性が、闘病にも「情報戦」であることを必要とさせる。
 遺伝子情報エラーに端を発するガンは「生き物」(そういえば別名は「悪性新生物」)だ。けっして同じ所に留まっていない。だから、ガンとの闘いには紆余曲折がつきものである。この定まらぬ不条理感覚と、徒労感が患者家族にボディブローのように効く。この状況変化が親戚や勤務先には十分に理解できず、ときには誤解を生む。さらには患者家族の元気を奪う。
 わが家だけをみてもいろんなことがあった。治療方針の転換。子供の病室での転倒・骨折。退院間近の高熱と退院延期。白血病の限定再発による追加治療。当初のドナーの乳ガン発見と、骨髄移植緊急中止。移植直前の再発。移植後、病院から解放される直前の再発。
 回りのどの患者を見ても、ストーリーは違いこそすれ、予想外の難関が連続して起こるのは共通している。こうした紆余曲折の中で、重要なのは「柔軟な対応」と「一貫性」を両立させることである。
◇患者本人が治療方針を選ぶ◇
 ガン治療は苦渋の選択の連続だ。まず、ガン治療法が確立しておらず、発展途上であるから、治療方針がいくつかある。またガンが姿を変えるから、適切な治療も同じではない。医療チームとの関係、介護体制の編成など、環境要因も折り込むと、岐路と選択枝がいっぱいできる。正解が必ずしもひとつではない。
 選択といったとき「正しい選択をする」ことと「あとで後悔しない」ことの二つの意味がある。

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正しい選択は、可能かどうか分からないが、できるように頑張るしかない。後悔しない選択は、かなりノウハウで会得できるのではないか。
 闘病過程でパソコン通信でいろいろとアドバイスをしていただいた日本の内科医の先生がいる。彼は「喪主が納得がいく選択を」がモットーで、私にもそれを勧めた。これは最悪のときを考えておくこと。残された人、中でも喪主になる人がそうなったとき後悔しないという観点から治療方針を決めるということだ。
 この秘訣は医者にとって、患者家族から後から苦情を言われたり恨まれたりしないために、大切なことだと思う。「納得がいく選択」というところには完全に同感する。だが、「喪主が」という部分には、患者に告知することが少なかった時代のにおいが残っている。患者本人には何も知らせず、回りが相談して決めることが普通だった時代・・・
 告知の時代には「“患者が”納得いく選択」が第一だろう。ガン治療の選択は運命と生死の選択だ。誰もが納得できる正解はない。これは患者本人しか責任が取れない選択である。回りで独断で決めてうまく行かなかったときは、その人が一生苦しむことになる。患者にできるだけ情報を集め、患者本人といっしょに決める、しかない。僕は番頭役に徹することにした。別の見方をすると、「非告知」は患者家族と医師に負担が掛かりすぎる。だからといって、患者がその分だけ楽になっているとも限らない。
 「お医者さんの言うとおりやれば良い。そんなに一生懸命やっても、結果は同じではないか」と思うなかれ。「超・闘病法」によって、治癒は保証できないにしても、選択する治療法が全く変わりえる。お医者さんは完璧ではない。お医者さんによって意見は違う。そして、お医者さんも「情報収集」によって方針を変えていく。
 話が少し抽象的になった。次回は、我々がどういう過程で「フレッド・ハッチンソンがん研究所での非血縁ドナーからの骨髄移植」を選択したか。具体的な応用問題として示していこう。

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